2005年 12月 7日 (水) 

       

■ 〈盛岡ことば入門〉273 黒澤勉 澤口さんの戦争体験

 一八八、脱線余話−澤口久志さんの戦争体験−
 
  あすは、12月8日、今からちょうど60年前の1941年(昭和16年)のその日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、ここにアメリカ、イギリス、オランダを敵とする太平洋戦争が始まりました。

  それ以前、中国では日本軍の進出に対し、抗日救国運動が起こり、北京郊外の蘆溝橋で、日中両国軍の衝突事件が発生、これを機に日中戦争に突入、その延長線上にこの太平洋戦争がありました。
  盛岡弁研究会の仲間の一人、澤口久志さんの戦争体験から紹介しましょう。

  澤口さんは昭和19年1月に中国の山西省出兵、敗戦を上海で迎えた後、昭和21年3月、22歳で帰国しました。

  −おらぁ、昭和18年に盛岡夜間中学校(今の杜陵高校)を卒業しあんした。厨川村の土淵小学校を卒業した後、昼間ぁ、家の農業しながら、夜学校に通いあんした。昔あ、満20歳で兵隊検査したもんでがんす。おらぁ、学校さ行ってるため、証明書を出して入隊を1年延期してもらいあんした。もし学校さ行がねで、20歳で召集されでいだら、ニューギニアどが、フィリピンで戦死してだと思いやんす。

  秋田駅がら出発して、下関で汽車に乗り換え、関門トンネルを経て博多に行ぎあんした。博多がら船で釜山に着ぐど、そこで降りて北朝鮮を経て満州に行ぎあんした。

  軍隊は班編制になっていで、一つの班が20人、青森、秋田、岩手の人が交じっていあんした。班長は小学校卒業の人で、中学校卒業のおらのごど、やんたがってあんした。休憩の時は「ほれ歌え」ってそわれで、歌わせられだもんでがんす。青森、秋田の人ぁ、よぐ歌いあんしたが、岩手の人ぁ、歌わないので、めげぐながったようです。班長に食事を持って行ぐとき、機嫌ぁわるいどきぁ投げられだもんでがんす。

  軍隊では兵隊は班長さんの嫁さんのようなもので、自分のごどだけでなぐ、班長の面倒みねばながんした。靴みがいだり、巻き脚絆(きゃはん)をとってやったり、洗濯してやったり、飯運んだりしあんした。

  満州では「敵は四方にいる」と何回も言われあんしたが、はすめは、何のことかさっぱりわがらねがんした。だんだんに蒋介石の兵隊と共産党の八路軍と農民が自主的に作った兵隊に自分たちが囲まれているということがわがってきやんした。

  「一人で歩いてはいかん」とも言われあんした。「若い女に誘われても行くな」とも言われあんした。日本兵に対し、生け捕ったらいくら、死体はいくら、と値段がついていたそうでがんす。中国の兵隊が作った地雷があちこちにありあんした。鍋のようなものに板を載せて、上に乗ると爆発する仕組みになっていあんした。

  砲弾の嵐の中をくぐったこともありあんす。弾が飛んでくると動けなくなりあんした。命がないものとあぎらめあんした。アメリカは大砲を撃って、その後で兵隊が進んでったそうでがんすが、わが日本軍は砲弾の中に飛び出して行ぎあんした。

  中国の迫撃砲は不発のものが多く、中国相手だったがら、死なないで帰って来れだと思いあんす。もし大軍が押し寄せたり、アメリカ相手だったら死んでいだど思いやんす。

  昭和19年5月7日の夜、突然、「起ぎろ」と言われて、起こされあんした。
  「何年兵だ」

  「ハイ、初年兵であります」
と言うと、「皆のいる方へ行け」と言います。兵隊が足りないので、2月に入隊したばかりの教育中の初年兵までかり出されあんした。夜の渡河演習であんした。日中も横になって休むことはなかったので、居眠りをしながらの演習であんした。5月9日の夕方から、黄河の見える所に移動して、渡河命令を待ぢあんした。

  照明弾が上がり、突然、「ダダダー」と機関銃の音。舟に乗っていく兵隊。川に打ち込まれる「シュシュシュ」という音。弾を浴びてうなる声。銃声。明るくなったり、暗くなったりする川面。舟の中で身を丸くして、無事に渡りあんした。

  「工兵隊ありがとうございます」と叫びあんした。対岸の小高い所に行き着いて「アー黄河を渡った」と思わずつぶやぎあんした。軍隊では自分のことを「自分」と言いあんしたが、自分は、機関銃部隊であんした。1分隊8名、自分は2番目で機関銃の弾込め役であんした。

  「伏せ!」という命令であっちこっちに身を隠す。弾が耳の側を「シューシュー」と飛ぶ。頭を上げて前を見ると「コラ馬鹿者!」と古兵に怒鳴られあんした。「初年兵だから戦を知らんだろうが、弾に当たれば死ぬんだぞ」と言われあんした。「ハ、ありがとうございました」。

  この戦いで同じ厨川村の平賀新田のSは右腕に弾が当たり、残されました。終戦になり復員すると彼は、右腕が義手でしたが、元気であんした。

  行軍は夜することが多かったもんですが、日中の行軍中、山から平地に出て間もなく、山の方から、飛行機が低空でやってきて「ダダダー」と弾がとんできました。耳が割れるような銃声。日本軍の上を十字を描くように襲撃しながら旋回する戦闘機。「弾の来る方をよげればいい」などと思っていあんしたが、腰を抜がし、それどころでね。死ぬど思いあんした。弱虫であんした。

  古兵は頭を撃たれて即死。弾が切れだが、急に静かになりあんした。あっちこっちで負傷兵の痛さをこらえる声が聞こえできあんした。6月、7月、8月と戦は続きました。

  今でも、戦争中のことは、忘れられない思い出として、時折よみがえってくるこどがありあんす。戦ぁ、するもんでねがんす。
(岩手医大教養部教授)


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