2005年 12月 8日 (木) 

       

■ 〈岩手人の見た戊辰戦争〉41 和井内和夫 戦争異聞9

 ■傭兵か国民兵か
  傭兵(ようへい)の定義を「金で雇われた兵隊」、国民兵の定義を「国や国民を守るための兵隊」とすれば、幕藩時代の藩士たちの場合は、家臣である自分の地位と生活を保証してくれる主君や藩権力を守る意識はあっても、領民=百姓町人を守るという意識は薄かったと思われるので、強いて傭兵と国民兵のどちらかに分類するとすれば、傭兵に近いものといえるであろう。

  ただし、状況によっては国民兵的意識が働く場合もある。戊辰戦争でいえば、領内を西軍に蹂躪(じゅうりん)された会津藩や、奥羽越列藩同盟側の庄内軍・仙台軍や盛岡軍に領内を侵攻された秋田久保田藩の藩士たちの戦意は、国土・国民を守る国民軍のそれに近い状態にあったと思われる。
  敗戦=敵軍による領土の占領支配は、自分たちが権力や支配階級としての特権と生活基盤を失うだけではなく、侵入征服者による抑圧と苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)、そして家族に対する迫害や略奪暴行が避けられないからである。

  彼らの意識の中の守るべきものの中に、国民(領民)が入っていないという根本的違いはあるが、侵攻される側の戦意は、攻める方の戦意に比較して格段に強かったのは事実である。

  その反対に、「同盟違約」を理由に秋田久保田領に侵攻した奥羽越列藩同盟側将兵の戦意は、東北戊辰戦争における薩長両藩の直接の攻撃目標であり、敗退が即敵軍の自領内侵入と、自分たちに対する報復行為につながるという意識で戦った庄内軍は別にして、それ以外の仙台軍や盛岡軍の場合は、傭兵のそれとそう変わらないものであったと思われるのは前述のとおりである。

  ただし、その盛岡軍にしても、戦争後半守勢一方になり、自領内に攻め入られそうになるに従って戦意が高まり、抵抗が激しくなっているのは、軍隊の戦意の実態を示しているものであろう。

  中世から近世初期にかけてのヨーロッパの戦争は、傭兵によって戦われている。傭兵の定義については前にも書いたが、思想とか主義信条に関係なく、金銭や各種給与などの代償によって戦闘を請け負う兵士のことである。

  また各種給与には土地の給付は含まれないが、戦に勝った場合は、金銭や各種給与などのほかに略奪や婦女暴行を公認するという、今考えると極めて非道徳的であるが、現地に地縁・血縁のない当時の出稼ぎ傭兵たちにとって魅力的条件がついていたようである。

  中世ヨーロッパでは、封建王制国家の枠を超えて跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)した出稼ぎ傭兵集団であるが、日本ではなぜ跳梁しなかったのであろう。その理由はなによりも、ヨーロッパにおける傭兵全盛の時代、日本では徳川300年の泰平期であったことが一番であろう。戦争がなければ傭兵の出番はないわけである。

  徳川幕藩時代で傭兵らしいものとなると、強いて言えばであるが、住と食を保証され金で雇われた、テレビ時代劇に登場するやくざの助っ人や大店(おおだな)の用心棒であろうか。

  日本の場合中世以前までさかのぼってみると、平安時代における源平両武士団は広い意味では貴族たちの傭兵といえないこともないが、地縁・血縁のしがらみは超越し得なかったようで、ヨーロッパのように、公然化した取引として、当座の金銭的利益のみで向背を決める徹底した「雇い兵」は思いつかない。

  ただし、そこまで徹底はしていないが、室町時代末期、戦国時代の幕開けとなった10年戦争応仁の乱においては、本来の当事者である細川・山名の両陣営のどちらにも“一貫した名分”らしいものがなく、両軍に加わった諸兵の多くは金・物の給与や勝った場合の恩賞目当ての傭兵であったと思われるし、戦国期の合戦において、いわゆる〓陣場借り〓と称し、勝った場合の召し抱えや恩賞を期待して、“勝てそうだ”を唯一の選択肢として味方する側を選び、戦をして歩いた浪人たちも傭兵の一形態であろう。

  また大坂冬・夏の陣の際、豊臣側の徴募に応じて大坂城にこもった、勝った場合の大名取り立てや恩賞目当ての浪人たち、そして近世では“一旗組”の多かった幕末新撰組も傭兵の一種かもしれない。
(旧盛岡藩士桑田元理事長)


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