2005年 12月 9日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉92 工藤利悦 貞享3年3月、地震のように鳴ることたびたびなり

 ■貞享三年三月の頃岩鷲山焼け
  一、貞享三年(一六八六年)三月の頃地震の様に鳴る事たびたびなり。四五日過ぎて申ノ刻(午後四時頃)ばかり岩鷲山焼け、盛岡・郡山・花巻之境までことごとく灰砂降る事雨のごとし。北上川・松川へ硫黄流れ入りて二三年雑喉(ざっこ)なし。その後(御使者を)都へ仰せ遣わされ、吉田殿へ御相談なされ候には、我が領分に岩鷲山と申す山あり、昔は「霧山が天上」と言う。大同二年(八〇七年)田村丸(坂上田村麻呂)の権現を勧請したまう。一年に一度ずつ諸人参詣致し候、精進あしく候えばたちまちに攫(さら)はる。さて去年中、天上ことの外焼け申し候間、いずれ官位の望みにも御座候故と仰せ遣わされ候えば、正二位大権現と顕(あらわ)したまう。その後、別して不思儀の事もこれ無く、されども精進あしきければけがあり(以下脱落か)「祐清私記乾」

 火山活動が発せられて入山禁止となった岩手山も、昨年七月に全面解禁となり、早くも一年を経過している。さて岩手山は有史以来どれだけの数の噴火があったものか、藩政時代に限ってみれば、貞享三年(『歴代御記録』)と、焼走りが出現した享保十六年(一七三一年)十二月(翌年正月頃停止か、『雑書』)の二回が知られている。

  焼走りが出現したときの噴火について『岩手県災害年表』は享保四年正月としているが、原史料名が明示されていない。推して誤伝であろう。つまり、本文に見えることは、この二度のうち、貞享三年の噴火に関連する記録である。

  かいつまんで言えば、貞享三年三月の初めに、地震のように鳴るとは地響きがあったということか、四五日して午後四時頃から噴火が始まり、盛岡はもちろん、花巻方面まで灰砂が雨のように降り出し、北上川や松川に硫黄が交じりあう泥流が流れ込み、しばらくの間、雑魚(ざっこ)の姿も見えなくなった。

  藩は使者を京に立て神祇伯吉田家(当時・兼敬)へ依頼するところによれば、「我が領内にある岩手山は、大同二年に坂上田村麻呂が権現を祀って以来、年に一度ずつ諸人が参詣する御山であるが、不精進であればたちまちに怒り、去年も機嫌を損じて噴火をしてしまった。これは神位を望んでのことと推察されるので贈位をお願いしたい」と要請した。

  吉田家はこれを請けて、岩手山に正二位大権現の神位を授けられた。その後は山も静まったということであろう。

  あえて言えば松川は北に過ぎて方位が違う。一本木の南を東流する砂込川を誤解した記述と勘考される。岩手山は早池峰・姫神・新山とともに盛岡鎮護(四鎮山という)の山で、大勝寺(境内地は若干移動しているが現在の岩手山神社は旧境内)が岩手山の別当寺であった。

  山頂を中心にして、山腹の柳沢に社堂があり、南は鞍掛山・春子谷地・茄子焼森・沼森の線を限り、東は高速道付近木賊川限り、北は砂込川限りを大勝寺境内としていた(南部家旧蔵文書)。

  別称を大勝寺山とするゆえんである。噴火により、現地にはさまざまな調査団が入山し現状を書き留めている。次の記録は大勝寺山伏一行の報告書である。柳沢から登り、現在陸上自衛隊の演習場となっている大堀付近の様子が詳細である。

  御八葉の内とは鉢を臥せた形、外輪山を指称していると思われる。溶岩は青年の家の建っている方向を差して流れ、竜ヶ馬場へ焼け崩れ、大堀附近に焼けた大きな石が滞留した様子である。近年調査に当たった専門家の方の話によれば、溶岩流は積雪を溶かして、いわゆるおびただしい泥流が大堀付近に流れ込んだ形跡が確認されているとのことである。
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  岩鷲山焼候に付き、見分を遂げなし候処、山伏共が申し出で候は、去る三日の晩丑刻(午前二時頃)柳沢へ参着、一宿つかまつり御祈とう申し上げ、四日朝、御山へ参り候、常々御山へ参詣つかまつり候道へはかかり申さず、一の鳥居より北向、角違いに御山へ登り、焼け申す所まで参り候、火は御八葉の内、もへ(燃え)、大嶽と申す所より竜ヶ馬場へ焼け崩れ、大堀へ大石ともおびただしく押し込み申し候、峯より崩れ申す石ども、御山の平に留り、焼け申し候、大堀の底に崩れこれあり候石どもも焼け居り申し候、火の色光明、朱のごとくにて、岩の底より見得申し候よし、三日の夜、柳沢に居り申し候内、いなひかりつよく、御山ももっての外、震動つかまつり候、四日巳之刻(午前十時頃)過ぎより鳴も少々静まり申し候、右崩れ申す石砂にて麓の大木・大石とも、押し抜き打ち折れ、微塵に成り申し候、御山半ふくより上は雲焼にてたしかには見届け申さず候、大方に見分けつかまつり候よしこれを言上す(『歴代御記録』)。
    ◇    ◇
  次の記録は厨川通代官長牛市右衛門と鵜飼村代官金田一与兵衛が鹿角街道沿いに北上し、大石渡から角掛(現一本木)に向かう途中、国見峠付近で地獄のさまを見た実況報告である。
  北上川に家財道具などが漂流するため被災現場確認に向かった一行は十数名。三月三日(原本は閏三月とある)午後六時頃に盛岡を出発。夕顔瀬橋の付近で山頂から溶岩が流れる様子を確認する。安倍館附近に差しかかった頃からきな臭い北風が吹いていた。国見峠(註)付近で一行はすさまじい情景に遭遇して一同立ちすくみ動けなかったと記述する。専門家はこの状況を火砕流が通過する直近に居った様子、よくぞ生還出来たと分析している。明朝峠を下って角掛(一本木)に向かうと、逃げ遅れた老夫が一人いて、屋根の上で念仏を唱えながら死への恐怖と対峙していた。村人は全員、留が森へ避難したが、自分だけ逃げ遅れ、橋が落ちて逃げ場を失い、家に立ち帰りかくの状態とのことであった。
    ◇   ◇
  貞享三年三月三日巳の刻(午前十時頃)より岩鷲山御炎焼罷なり候。(中略)夕顔瀬の橋より岩鷲山御天(山頂)を見渡し候えば、御山の内、東平みな焼け候ように相見え候。古館(安倍館)辺を通り申し候えば、生臭き北風吹き来る。国見峠に着き候えば、焼灰壱尺貳寸斗り、かなり降り、御天は稲妻、悉くして火柱貳本立ち、壱本は北の方えさる。壱本は国見峠に火移り、天上には青雲白雲赤雲雷雹もっての外なり。五間七間程の大石に火は付き、令飛諸木大小あらず、角懸へ飛び落る音は地を震わせ、雷凄まじとも申す斗りなりける。煙へ灰交り降り一切側なる人も見えず。(中略)翌る四日の朝、長込と申す坂に六つ半(午前六時頃)過ぎに参り候へば旭も見えず。朧月より闇く山の端へ眺め下り見申し候処、土水火交りさんざんに流れたりける。朶葉(註)に火は付き、小木大木根より推出し、それに又硫黄に火付き焼け来る。(中略)方々見渡す処に屋根見ゆる。その上に人壱人見え、一心に念仏を申し居り候間、不審に存じ、(中略)声上げ呼び候えば、(中略)、地獄にて仏の御尋ねに逢ひ奉るとて限りなく悦び申し候趣きなり。何とて右衛門三郎一人残りたるかと尋ね候へば、皆、留居森(ママ)に引越し候。(中略)私事も向い(川向かい)に趣き申す処、少々の隙を取り申す内に橋落ち候故、立帰り屋根へかけ上り、かくの如く最後と存じ念仏申し居り候。(『篤焉家訓』)
  【註】国見峠
  青年の家の南東に位置し、一本木上郷のやや北東付近、現在畑が広がり、峠の趣はうかがえない。かつて頂に国鉄東北本線の監視所があったという。

  【註】朶(えだ)
  『大字典』によれば、「えだ」には、枝・朶・篠・柯の類字があり、枝は幹に対する「えだ」の総称、朶は小枝、あるいは花の付いた短い枝、篠は長い枝、柯は大枝のこと。

  この村は砂込川に流れ込んだ泥流によって全滅し、後に藩より被災者に対して何かしかの米金銭が見舞いとして支給されている。

  先の『歴代御記録』によれば、京都へ奏上されたのは九月のこと。十月三日の条に「神位相調正一位岩鷲山権現と宣旨御幣相書箱に入云々」と見える。本文に見える正二位は正一位の誤伝である。その外三月についても閏三月と誤り伝えられている。享保噴火の折、藩は貞享噴火に際して各役所・村方が書き留めた記録類を徴収して一件記録を作成。のちに、これが転写され流布したものの中に誤写もあったことは容易に想定されよう。どこかに一件記録の原本が伝存していることを期待して止まない。


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