■ 〈古文書を旅する〉93 工藤利悦 夜ひそかにとが人を召し連れ行きて人柱に立てる
|
■さまざま取り集め書きのこと 四 北上川の川道を付け替える大普請
一、延宝二寅年(一六七四年)大澤川原に新土手を築く、北上川留切の大普請なり。説に、夜密かに籠より咎(とが)人を召し連れて行き、人柱に立てけると言う雑説あり。右は北上川が城の腰を流れ、馬場の東へ流れ、とみて大澤川原を普請して侍丁を割り、その頃には大清水下川原を御普請、餌差丁となる。その後洪水、土手を破りて餌差丁ことごとく流れる。男女童子多く死す(「祐清私記乾」)
【解説】
正保二年(一六四五年)の盛岡城絵図によれば、雫石川はJR山田線の鉄橋付近で北上川に合流していた。雫石川を筏(いかだ)下しされた木材は材木町と対岸に集積にされた。
材木町は当時の活況を伝える名残の町名である。北上川はさらに材木町付近から左に大きく湾曲する。桜城小学校脇・大通飲食店街の道路はかつての川道。大通佐々木電気とメガネの松田の間や、産ビル・教育会館の裏手の道路もその名残りである。
本文に見える「馬場の東へ流れ云々」とある馬場とは桜馬場のこと。現下橋中学校付近を流れ、大清水小路の坂の付け根から南大通二丁目の出光スタンド付近、鉈屋町岩手川付近へと流れていた。
『盛岡砂子』には、川原町に土橋があったと記述してあるが、その小川も北上川の名残りであったという。ただし雫石川の落合を仙北町寄りに切り替えたのはいつのことだろう。
本文は、現在私たちが目にする風景、材木町付近から明治橋と南大橋間の間(南大橋やや上流)の川道に切り替えた大工事に関連する記録。
『御城廻修補』によれば、その開始を『御在府日記』を引いて、寛文十三年(九月二十一日改元、延宝元年)に北上川の川道付け替え普請に付いて絵図面を添え願い出ていたが、五月二十一日付で願の通り許可された旨を記録し、当時の許可状(老中奉書)は盛岡市中央公民館が所蔵している。
ちなみに文言は「盛岡城本丸三重櫓一ヶ所、二階櫓一ヶ所、先年焼失に付、元のごとくに建るの事、北上川の古川、新規に水を留め、土手これ築き新川を堀り候事、同所西の方舟入の石垣崩れ候所、元のごとくに築くの事、同所舟付の所、新規に木戸門これ建る事、絵図面の通り及び上聞に候処、以て連々普請仕つるべく由仰せ出され候、その意を得らるべく候、恐慌謹言、五月廿一日(寛文十三年)稲葉美濃守・土屋但馬守・久世大和守、南部大膳大夫殿」(『篤焉家訓』十之巻」)とある。
これを受けて『雑書』(同年)七月朔日条に、「明二日、北上新川御通しなされ候、吉日に付て御手勢にて御普請始めなされ候、奉行に御物頭野々村宇右衛門・御横目松尾安右衛門・水縄張見分江刺家兵左衛門・大工奉行堀内定右衛門、大工壱人召連れ出るはず、材木等入用のため白戸与左衛門・寄木嘉右衛門・角伊兵衛が出るはず、右之通今日これ仰せ付けらる」、翌七月二日条には「殿様(重信)辰ノ刻(午前八時頃)北上川御普請場へ御出であそばされ、老中御供、午之下刻(午後一時頃)御帰城」とあり、前年寛文十三年の七月から工事が着工されていたことが知られる。
なおこの年には九月末日で普請仕舞がなされていたことを、さらに「九月晦日(三十日)北上川御普請明日より明日よりあがる云々」と伝えている。
「水縄張見分」とは測量を実施する役人のこと、盛岡藩の『縄検地雛形』によれば、水縄は渋と油を引き、極力伸び縮みを抑えるようにするとし、五間目毎に銅の札を付け、五、十、十五と文字を彫りつけていたとする記述が見える。
『地方凡例録』によれば、水縄は芋(を)の性を吟味いたし、筆の軸くらいの太さを三繰りに堅く綯う云々」とし、五六十間くらいの長さであると記録している。
この時に、噂の真偽は定かでないが、神への生け贄として人柱が立てられていたとのうわさを本文は伝えている。
川道付け替え工事は新築地(土手)が延宝三年八月に竣工を見るとともに、引き続き古川の普請へと移行す。川道付け替え工事にあたって動員された人数を伝える記録は管見にないが、同年八月廿一日に古川普請に向けて、高知(一門・重臣)に命じた動員令によれば、要害普請の一貫であることを申し伝え、高知千石に付夫八人、もつこう五ツ、天秤五丁、しゃくし一丁出す(『篤焉家訓』八之巻「重信公御代北上古川御普請之事」)と見える。
『盛岡砂子』は、「しゃくし」について、今の「かわさび」と言うものなりと解説するほか、高知に対して千石宛とするのは、高千石に付夫八人とすべきものの誤伝とみえる。かりに動員対象を全領であるとするならば当時の高は二十四万八千石。領内から一日二千人前後の人が動員されたということになろう。
新川道護岸のための土手を新土手と称していたが、文化年間(一八〇四−一八)に新築地と改称された。『盛岡砂子』は、土手高さ五間、長さ二十一丁あったと伝える。
現在の大沢河原は、新旧河川の中間に位置する区画、その一角に侍屋敷丁が縄張りされ、一方、川徳デパート周辺であろうか、延宝五年に御殿が新築された。同年十二月には「重信様、大沢河原御新宅へ御移徙(いし)に付御祝儀云々」の文字が踊る(『御城廻修補』)。
水沢市の旧家が所蔵する盛岡城下の絵図には、大沢河原御殿が描かれ、その中心に天守閣まがいの多層櫓が見える。
日本生命七十七銀行ビル付近を古川端という。ここには原敬の別邸があった。『盛岡砂子』は古川について、北上川の古川なり、北上川は御仁王馬場(桜城小学校付近)の南辺から直に東に差して御城下の御田屋清水へ突き掛かり、それより南に折れ、御本丸下通りを流れ、一間堰に出て中津川に落ち合いたり、故に当城は元和年中(一六一五−二四)落成せしなれども洪水の度ごとに水害甚だしく、これによって新堤防を築き、旧河川をいう」とし、山本縁増補の『盛岡砂子』によれば、これに続く一間堰と共に文政六年(一八二三)に古川新田として開田されたが同十年に再び洪水により荒れ地となった。維新後縣令島惟精が囚人を使役して水田を啓き、盛岡を去る時に南部家に売却した記述が見える。
現在の大通はその東に位置するが、三田義正をはじめ、池野藤兵衛、池野三次郎らの有志が相まって、一帯を南部家より払い下げ、造成を開始して、昭和二年に南部土地株式会社を設立、分譲は同四年(翌五年に完了)より開始し、現在の礎を築いた。
工事に際して埋め立てのための土砂は北上川の中津川落合から、砂利採取船によって採取し、軌道を布設してガソリンエンジンの機関車によって車輌を牽引して運搬、古川端付近から工事が行われたという(『盛岡の歩み』盛岡市編)
【杉土手】
杉土手は盛岡商工会議所のある付近を言う。『盛岡砂子』は御当家秘書に「元和年中大清水の土手を御築き、その前は北上川大清水坂の下へ突き懸けて追手門へ(今の新穀丁惣門の事なるべし)流れ、則今の古川是也」とあることを援用して、延宝三年の新築地普請は「土手の長さおおよそ二十一丁」としつつ、「旧土手へ御修覆ありしものならん」とし、また沖弥一右衛門の大小録に「御城下遠曲郭へ杉を植えたい」と見えるので享保期(一七一六−三六)には未だ杉は植えられていなかったものとの推察も見える。
南大通りの木津屋商店は新穀町惣門の処に所在することで知られる。『盛岡砂子』は御当家秘書を引いて「昔は北上川は大清水坂の下へ突き掛け、追手惣御門へ流れたりと」記述し、引き続き、川原町については「寛永図(実は正保図)に見えざれば杉土手御普請後出たるなるべし」、同所の土橋に触れて「この流れは昔の北上川なり、御当家秘書に曰く、大坂御陣の時、利直公、今の北上川より御出陣なりと有るは、元和以前の古川なりしと見えたり」と見える。
|
|
|
|
|
|
|