盛岡の生んだ偉大な政治家、原敬(1856〜1921)が今年生誕150年を迎える。平民宰相として多くの日本人から尊敬を集め、郷土の誇る先人として盛岡市民、県民から愛されている原。政治家としての功績が後世に名を残す一番の理由だが、原を調べれば調べるほど、政治にとどまらず原の功績や魅力ある人となりに出合い、興味は尽きなくなる。原の生きざまを改めて見つめてみよう。(井上忠晴記者)
原は1856(安政3)年2月9日(旧暦、現在の3月11日)、記念館のある同市本宮で家老直記の孫として、父直治と母リツの間に生まれた。7人兄弟の4番目、二男だった。幼いころから塾に通って教養を身に付け、明治維新で時代が変わって武士の家が厳しい生活を強いられる中、学問をすることで身を立てようと15歳で上京した。学費納入や退学など逆境に見舞われ1枚の卒業証書ももらうことはなかった。
しかし、持ち前の才覚と人々の支援により、新聞記者、外交官、大臣秘書官、外務次官など次第に政治の中枢に近づいていき、伊藤博文の立憲政友会結党にひとかどならぬ力を注ぎ、初代幹事長となった。
朝敵とされた旧盛岡藩出身ながら、薩長閥政治の不遇の中で台頭し、62歳のとき第19代内閣総理大臣に就任。悪弊ばかりが目に付くようになっていた藩閥政治に風穴を開け、わが国初の政党内閣を樹立し、先見性に優れた数々の政策を推し進めた。
平和外交路線は、結果として原の「命取り」になり、歴史に「もし」が許されれば、原が存命ならその後の日本は第2次世界大戦の敗戦国へと進む道と違った道を歩んだだろうともよく言われる。
市内では美術館のある深沢紅子以外、個人を顕彰する記念館はなく、その慕われ方のほどを表しているといえよう。慕うだけでなく、原から学び、今の時代、将来へと生かすことのできる存在なのだ。
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