盛岡藩家老の楢山佐渡は1869年6月23日、戊辰戦争で敗軍となった奥羽越列藩同盟の盛岡藩の戦争責任者として、盛岡市の報恩寺で首をはねられ38年の生涯を閉じた。「花は咲き柳は萌(も)ゆる春の夜にうつらぬものは武夫(もののふ)の道」と辞世の歌を残している。時代の変革期、武士が生きにくい世の中になったとしても武士道まで通らない世の中になったのかと実感したのだろうか。
刎首(ふんしゅ)は午前4時。警護厳しい寺の囲いの外に13歳の健次郎(敬の幼名)少年がひそんでいて刑のとき嗚咽(おえつ)したと伝えられる。敬は祖父が家老という家。世の中が変わらなければ、武士として生きるはずだった。一方で、このときの悔しさが、賊軍の汚名をすすぐ執念を原に芽生えさせ、生涯を決めた。
戊辰戦争殉難者50年祭が1917年9月8日、報恩寺で営まれた。地元では何の動きもなく、仕掛けたのは原であり、事実上の祭主だった。
原は祭文で「昔日も亦(また)今日の如(ごと)く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其(その)真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此(この)事実天下に明かなり」などと読み上げた。勝者に賊軍とされた立場を覆して対等の立場に置いた。
祭文の署名は「旧藩の一人」。原に武士の生活は絶たれたが、平民として生きた原から武士道が消えることはなかった。
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