2006年 1月 3日 (火) 

       

■ 〈原敬生誕150年〉原を知る15のキーワード「恩義」

 藩校作人館の先輩に貴族院議員、東京府知事などを務めた阿部浩がいる。阿部は4つ上で、先輩後輩の仲を越える兄貴分として親しかった。原を背負って岩山に登った逸話も。

  東大法学部の前身である司法省法学校を賄征伐事件で退学した原を、当時工務省判人官だった阿部が、同省権大書記官中井弘(のちに原の岳父となる)を通じて就職の世話をし苦境を救った。1879年、郵便報知新聞社に入社。原は新聞界で活躍する。

  原が総理だった1919年、東京府知事が急逝。知事任命権は内務大臣にあったが、原は元老山県有朋に相談し阿部に就任依頼。総理と同郷の府知事人事に異論も多かったが、床次(とこなみ)竹二郎内務大臣が原の意をくみ任命した。

  阿部の東京府政下の20、21年、砂利食い事件や東京ガス疑獄が起こる。市参事会員、市会議員ら20数人が検事局に召喚され、東京市長ら幹部が辞職する事態に発展した。嫌疑は阿部にも及ぶ。原は刑事事件への発展を防ぐため、阿部が辞職し公職を去るよう動いた。

  少年期に学んだ師への恩義も知られる。5歳から6年通った塾の太田代直蔵に対しては大宮神社に顕彰碑を建立。9歳から6年通った塾の小山田佐七郎の墓が荒れていると聞き及び、八幡平市の田山地蔵寺に新しい墓を建てた。11、12歳と通った塾の寺田直助の門弟らが顕彰碑を建てる際、費用50円を寄付している。

  大慈寺は原の祖先が藩で不遇をかこったとき世話をしてくれた。1884年の大火で建物を焼失し、末寺を仮本堂としていた。1905年に原の大金寄付など檀家(だんか)の寄進により山門が改築され、19年の本堂再建も原の寄進で実現した。自身が直接受けた恩義にかかわらず、原は心を配っていた。

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