2006年 1月 3日 (火) 

       

■ 〈原敬生誕150年〉原を知る15のキーワード「平民」

 原は1875(明治8)年、20歳のとき分家して平民になる。二男の立場からすれば、長兄恭が家督を継いでおり分家は当然だが、士族から平民になったところに意図的なものを感じる。国会議員になったのは、1902年に衆議院議員に立候補し当選してから。貴族院ではなく衆議院だった。

  原の眠る大慈寺の墓石前面には原敬墓と刻まれている。死後すぐに発見された遺書は3通あり、殺された21年の2月20日の日付で、死を覚悟していた原だった。その一つに「墓石の表面には与の姓名の外戒名は勿論位階勲等も記すに及ばず」との指示があった。

  死去後の指示の筆頭にあったのは「死去の際位階勲等の昇叙は余の絶対に好まざる所なれば死去せば即刻発表すべし」の一文。平民宰相と呼ばれた在任中に命を絶たれたのは運命的とはいえ、平民として生涯を閉じることを望んでいた。

  平民という言葉は原と新渡戸稲造を結ぶ。新渡戸は19年、『平民道』と題する論文を発表。「武士の階級的道徳を武士道という」が「今日には、このような階級的道徳は、踏襲すべくもない」と時代をとらえ「民を根拠とし標準とし、これに重きを置いて政治も道徳も行う時代が今日まさに到来した」などと論じている。前年誕生した原内閣が政権を握っていた。

  原は2つの日本初で形容される。本格的政党内閣の組閣者であり平民宰相であったことだ。明治維新後の政治体系になって以来、歴代の総理は伊藤博文をはじめ、爵位を持ち薩長土肥か公家の出身だった。第19代になって爵位を持たない原が藩閥政治を打破した。

  原は戊辰戦争の屈辱以来、郷土の名誉回復とともに道理の通る社会の構築を目指していたと思われる。薩長への対抗心だけではない、正しいものを正しいとする当たり前の世の中を思い描いていたに違いない。

  原を平民と形容するだけでは不十分。武士道を土台に平民道を究めたと言えまいか。

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