原の遺された写真を見ると、ダンディーで洗練された服装に目が行く。礼節を重んじた中でのおしゃれだ。
原は大阪毎日新聞社長時代、でたらめのペンネームで外国の人や文化と交流が盛んになる中で道徳や作法などをテーマにコラム形式の企画記事を連載していた。1899(明治32年)年に一冊にまとめられ出版された『でたらめ』。おしゃれに関係するコラムも少なくない。その一つに「靴とシャツ」がある。西洋文化が入って歴史の浅い日本の現状は、外交官でのパリ在勤を経験している原からすれば、履き違えたり掛け違っていたように映ったのだろう。コラムの一部を引用しよう(旧字体、かなづかいは常用に変更)。
「いかなる高い代償を払って、立派な洋服を着ようが、靴とシャツが不体裁であっては、どうも体裁をなさないのである、ところが日本の様子を見るというと、ずいぶん高い金を払ったろうと思う洋服を着ておりつつ、そのシャツを見ればあかじみていたり、またそで口からあかじみたるフランネルやメリヤスなどの見えるようであったり靴も汚れていたり、誠に靴とシャツには注意が到らぬようである」。原の書いたことは現代の男性ファッションでも、よく指摘されることだ。
原の写真ではフロックコートや山高帽、かっちりとした政界の実力者らしい仕立ての背広などを着ているものが印象に残る。その着こなしは、でたらめ記者こと原の身だしなみへの気配りを物語る。
しかし、養子貢は著書『ふだん着の原敬』(毎日新聞社刊)の中で「父はどちらかというと和服党」で「家庭のふだん着はむろん和服、役所も議会も和服でいくことが多かった」と書いている。盛岡市の糸治邸・紫草園での園遊会の様子を五味清吉が描いた油絵が、開催中の企画展で展示されているが、原は和服だ。
それでも原の洋装は貢を感心させた。「ひとたび洋服に腕を通すと、洋服スタイルが板について、あかぬけしたセンスを見せたのは、やはり若いときのパリ生活が多分に物を言っている結果としか考えられない」と回想する。同じ海外経験でもバックパッカーなどとは違い、代理公使のような立場で社交したからこそのダンディズムが培われ、原には西洋圏の米国さえ「ずいぶん粗雑な国」と断じられている。
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