2006年 1月 3日 (火) 

       

■ 〈原敬生誕150年〉原を知る15のキーワード「新聞」

 原は総理に就く以前に20代から新聞界に籍を置いた。都合8年10カ月になり、新聞記者のほか編集総理、社長職も務めた。ジャーナリズムで培われた精神が、政治家としての政策に反映されたことは容易に想像がつく。報道の世界に居続けていたとしても、後世に名を残すジャーナリストとなった資質もまた疑い得ない。

  原は1879年、賄征伐事件で司法省法学校を退学となったが、11月、郵便報知新聞社に入社。フランス語新聞の翻訳を仕事とした。社説も執筆している。記者ではなかったが、退学直後の同年8月から81年10月まで、山梨県の峡中新報に46編の論説を寄稿。多くは自由民権の潮流に沿ったもので、地方分権論を主張した。この論説に県官が激怒し、発行停止となった。

  郵便報知記者時代は、太宰官大書記官渡辺江基に随行して関東、東北、北海道を回り、記事は「海内周遊日記」として連載された。このとき、仙台の監獄で陸奥宗光と運命的な出会いをした。その後、社主になった大隈重信らと方針が合わず82年に退社する。

  97年には、大阪毎日新聞に誘われ、編集総理となった。9月16日入社の辞を紙面に「読者諸君に告ぐ」として掲載。「眼中に政府を置かず、又一部の人民を重しとせず、時に或は政府の忌諱(きき)に触るることあるも、又或は世上の攻撃を受くることあるも、期する所は国家の富強隆盛に在るなり」などと宣言している。編集長として社説を担当する。時事問題を取り上げる一方、平易な紙面を心掛けた。

  翌年、社長に就任。「でたらめ」も社長になってから執筆連載した。1900年、伊藤博文が結党した立憲政友会に入党し、社長を辞任する。

  03年に大阪新報社の社長に就任。有能な主筆を探していた。福岡日日新聞の前主筆高橋光威を推薦され面談。他の職が決まりかけていた高橋を説得して迎え入れた。日露戦争前後に当たり、勝利して大きな賠償金や領土を期待していた国民が、条約内容に屈辱的講和だと騒ぎ立てた。高橋は両国の国力の差や日本政府の戦争終結への模索を知り得ていたため、講和はやむを得ず早期の条約締結が望ましいとの立場で論説を展開。国民から非難が寄せられ同紙の不買も増えた。

  社内でも営業面から論調の変更がもちだされたが、高橋は信念を曲げず、原も高橋の所説の通りでいい、購読数が減っても仕方がないと認めた。政治家になった原に付き従い、内閣書記官長として原の最期を看取った高橋の生涯を決める一事だった。

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