原は57歳の1913年ごろから句作を始めたといわれるが、自選で編んだ「句帳」には622句が収められ、作品は少なくない。当時の政治家の中では多作と言われ、一山百文から取った一山を俳号とした文人だった。
命日の11月4日には毎年、盛岡市内で逸山忌俳句大会が樹氷俳句会の主催で開かれている。
一山の句で最も有名なのは「わけ入里し霞の奧も霞かな」であろう。数え66歳の「老翁」となった自身の現況から詠まれ、盛岡市本宮の原敬記念館前の句碑にこの句が選ばれた。それに匹敵するのが「焚く香の煙のみたれや秋の風」。1917年9月8日、報恩寺で開催された戊辰戦争殉難者50年祭で祭文を読んだ原。賊軍の汚名をすすいだ万感の思いを込めた。
政治の舞台にからんだ句も。同年には、憲政会の議員激減の選挙結果に「東風吹いてそぞろに散るや室の花」と詠み、総理時代の20年には、貴族院の議場にての前説で「端然と扇子握りて昼寝かな」と今日の週刊誌が取り上げそうな情景を詠んでいる。
のちの総理へのステップとなった政友会総裁を引き受けた14年6月11日に詠まれたのが「夜に入りて水音冷し嵐山」。夏なのに涼しいとしなかったところに暗示的なものを感じる。
「わけ入里し…」よりさかのぼる4年前、盛岡の別邸で友人たちと祝宴を開いた。「今もまだ幼な顔なり梨の花」。いくら歳を重ねようとも、故郷の旧友と話せば、いつでも「あのころ」に戻ることができる。
最後に盛岡の句をもう一つ。父直治は盛岡城内にあった江戸から移植した八重桜の若穂を拝領して生家に植えた。3本のうち2本は枯れたが、残った1本は今も「戴(いただ)き桜」として生家のところにある。祝宴の帰省の折、原が久しぶりに生家を訪れると、戴き桜は満開で「老死なば茲に朽なん花のもと」と詠んだ。15歳で離れた故郷で生涯を閉じたかっただろう愛郷の思いが伝わる。
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