2006年 1月 3日 (火) 

       

■ 〈原敬生誕150年〉原を知る15のキーワード「女性」

 原の妻といえば、浅である。原は2度結婚しているが、ファーストレディーは浅だけ。しかし、今日、ファーストレディーから想像する華やかさとは縁遠かった。むしろ、先妻貞子の方がその面では向いていたかもしれない。けれども、後世に名を残す大政治家は、浅の内助の功なくして誕生し得なかったのではなかろうか。

  原が暗殺されてからの一連の言動は広く知られ、原の胸中をよく知る伴侶、遺志を忠実に遂行する分身としての浅を物語る。ここでは原の政策を生み出す源の一つになった欧米視察(180日間世界旅行)にまつわる話を載せておこう。
  1908年7月、第1次西園寺内閣の内務大臣・逓信大臣を辞任した原は在職中から、東京芝の私邸が手狭なため家を購入しようと考えていた。これを聞いた浅は、大きな家を購入すれば世の中の人は在職中に金を利得したかと疑われるので、増築程度にとどめ、残りは洋行して知識を養う方がいいと勧めた。

  同年8月に出発し、北米大陸を経由してヨーロッパを周遊。シベリア鉄道を使って大連から帰国した。新興米国の台頭を予感し外交で重視したこと、昭和天皇となる皇太子の外遊を実行し渡航先にヨーロッパを選んだこと、鉄道普及、高等教育の充実、女性を含めた人権の尊重などの政策に生かされた。

  先妻貞子は薩摩藩士中井弘の娘。明治維新にかかわった人物だが、閣僚の地位には無関心だった。工部省大書記官、滋賀県や京都府の知事などを歴任。原を娘婿にしようとラブコール。原27歳に対して貞子は14歳の少女だった。
  急ぎの結婚のあと、原は天津領事に赴任。箱入り娘の貞子には堪えた異国の生活だったが、1885年12月、パリ公使館書記官に赴任。年明けすぐ貞子も着いた。パリ時代は二人の結婚生活で唯一幸せを感じられた時代。帰国後は、うまくいかず別の男の子を宿し離婚を決定付けた。お互いにとって不幸な結婚だった。

  原を慕った女性として池永石子がいる。大阪の新聞社勤務時代に知り合った祇園の芸妓で、その後、東京に暮らしていた。1914年、内務大臣のとき、石子の家に泊まっていたと新聞にすっぱ抜かれた。

  原の7回忌、石子は原家を訪れ焼香した。来邸記念帳に「かこつとも/なんのかひもなきものを/思ふまいとぞ思ふなりけり」と歌を記した。石子は羽織はかま姿の原の木彫り像を彫らせ、59年に82歳で亡くなるまで、毎朝拝んでいたという。
  原の1回忌を済ませて追うように去った浅と、38年という歳月を今生で一途に思い続けた石子だった。

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