原内閣が誕生した1918年以前、大隈、寺内と続いた内閣は対中国強硬政策、第1次世界大戦参戦、シベリア出兵など軍事力を押し出した拡大路線にあった。
首相就任前から軍事拡大路線に異議を唱えていた原は、政権掌握後、日本の外交(軍事)政策に対する世界の警戒感を熟知し、外交を転換させ始める。
経済産業立国として世界協調する平和外交の道を志向して、米国が世界の主力に台頭すると感じ取っていた原は日米協調を重視した。とはいえ、平和・協調路線は前面に打ち出すと軍部だけでなく国内世論からの反発を増幅させ、政権を揺るがす事態になるとも予想され、原は国内世論を懐柔させながら諸外国の警戒感を取り除くことに心をくだいた。
シベリア出兵には、増兵はしないが撤退もしないという中間策で事態の収拾を図った。不増兵だったが、段階的に減兵措置を取っていく。満蒙問題も軍事支配を薄め、既得権益を保護するにとどめようとした。
第1次大戦後、パリ講和会議が19年、開かれた。戦後処理が主要議題だったが、原の意を受けた日本全権団は人種差別禁止の規定を国際連盟規約に盛り込むことを提案。画期的提案は不採択となったが、のちの国連憲章第1章第1条には人種差別の規定が盛り込まれ、原の先見性を物語る。
原の外交姿勢は、外務官僚としての経験、ジャーナリズム界、世界旅行での見聞の中で大きく培われたといえよう。その中で、薫陶を受けたとされるのが外務大臣を務めた陸奥宗光。外務大臣在任時の陸奥は原を秘書官、通商局長、外務次官に起用。不平等条約の改正が陸奥や原の目指したもので、1894年に日英通商航海条約が調印されている。陸奥の開明先進主義が原に影響をもたらしたことは疑い得ない。
1921年11月、国際会議のワシントン会議が開催された。原は日本全権団の出発を見送ったが、11月4日に暗殺され、原を失ったまま会議が行われる。しばらく原の路線が継承されるが、日本の外交は原以前に回帰し、再び戦争への道へと進むことになった。
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