■ 藤原嘉藤治生誕110年 紫波町水分の住民が語る
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紫波町が生んだ文化人で開拓農民のリーダー、宮沢賢治との親交で知られる藤原嘉藤治が生まれて今年で110年を迎える。さっそうとした音楽教師時代、賢治没後はその作品を世に出すため編集活動に没頭。敗戦後は大陸からの引き揚げ者のための農地確保、開拓者の生活向上策に奮闘した。音楽教師時代とは一変し農作業の服装を通し農民たちと汗を流す毎日。没後約30年を経過、その功績を知る人は少ない。本紙では嘉藤治の親族、開拓時代の嘉藤治を知る方たちに紫波町小屋敷にある嘉藤治宅書斎で、生前の嘉藤治について話を聞いた。
座談会出席者は嘉藤治長男嘉秋の妻の藤原艶子さん、嘉藤治の義理の妹ミサヲ(嘉藤治が養子に入ったあと菅原家で生まれた)の長男の嫁村松ヤエ子さん、農地開拓時代の嘉藤治に協力した藤原善一の弟の藤原幸さん、嘉藤治より少し早く東根開拓に入った農家家族の川村礼子さん、嘉秋の友人泉館重雄さん、旧水分村職員の須川慶一さん。かとうじ山こだまの会の役員の皆さんの進行で行った。(以下敬称略)
村松=嘉藤治さんとの関係は、わたしのしゅうとめミサヲが義理の妹にあたり1954年に嫁いできたんですけど、何かにつけ、しゅうとめが嘉藤治さんの話をするので興味を持つようになりました。
しゅうとめの話によると、菅原家では子供がなかったから欲しいと思って嘉藤治さんを養子にもらったそうです。
嘉藤治さんを養子にしたあと、菅原家には次々に子供が生まれたそうです。でも嘉藤治さんを自分の子供と変わりなく育て、いろんなことに優れていたので学校も進みたいだけ進ませ師範学校に入れ、教員の免許を取らせたということを聞いています。
わたしは嫁に来て嘉藤治さんに会いに行くと、「何だって驚くことはない、突き進んでそれを飛び越えるように頑張れば、人になれるよ」と聞かされました。
わたしが結婚したとき嘉藤治さんは卵はジャガイモのように食べるべし、牛乳は水のように飲み、体作りをするよう言われた。体が丈夫でなければ何にも立ち向かえない。わたしは農業をやったことがなく、やればできるのかなと思い、皆さんが8の力を出せばいいところをわたしは12の力を出して頑張ったから今があると思っています。
須川=47年から49年ころまで水分村で当時農地委員会(現在の農業委員会)の職員をしていました。藤原さんは開拓関係で農地委員会に連絡のため、しょっちゅう来ていました。それは、県や地方事務所の開拓課との事務折衝の窓口というか橋渡しのため、できるだけ世話したいとやっていました。当時は役場、農協、学校くらいしか電話がなく、わたしは連絡役として藤原さんのもとに来ていました。
農地委員会は47年から未耕地買収に取りかかり、藤原さんは海外や他県から来た人たちを救済する目的で入植者の希望を取ったんですが、なかなか適地がなかった。この辺(東根山ろく)は国有地を開放してもらったわけですが、そのほかにも10ヘクタール以下の小規模団地については、町村の農地委員会が買収する所管事務だった。わたしたちも小規模団地を買収して売り渡したわけです。藤原さんとは常々事務的な連絡を取ったわけです。
藤原さんが一番悩んだのは、無一文で引き揚げてきた人たちばかりですから、生活資金もなければ、営農資金も住宅資金もない。それをどういうふうにして工面して切り抜けるか。融資や補助をもらうための個人的な申請書もなかなか書けないわけで、結局は自分が代筆してやらなければならなかったので、困った困ったと言って、わたしたちのところによく顔を出していたものです。
県や地方事務所などの関係機関についても、適地探しで足を運び、自らもくわやつるはしを持って開墾し、その日その日の糧を得なければならないという、せっぱ詰まった自分の環境の中で人の世話をしなければならないということは、大変な苦労だったと思います。
嘉藤治さんは東京から引き揚げて菅原家にいたが、県営の集団農耕地の空き家があって、県の委託を受けて農業指導員をしていた藤原善一さんの世話でそこに仮住まいしていたんです。
小規模の開拓集落で頑張り、最終的には県開拓連盟の委員長にまでなった人ですから、努力してみんなに信頼を得たということは偉大なものだと思っています。宮沢賢治の精神を受け継いで実現させていったのが嘉藤治さんだと思います。
藤原(幸)=わたしの兄善一は嘉藤治さんより2歳下で、不動小学校で嘉藤治さんの兄広治さんから教わり、感化を受けたんです。和味(矢巾)の集団開拓が始まり、農業指導に当たり、その後、嘉藤治さんが東根開拓で入植して深いかかわりを持つようになったんですよ。
川村=わたしは嘉藤治さんに開拓でお世話になりました。父の川村銀次郎は39年に水分の県営開拓に入植しました。44年にその開拓から出て、同じ集落の下の方に移り住んでいたんですが、終戦を迎え48年に嘉藤治さんが本をたくさん持って開拓に入ってきました。
当時の状況は、食べ物はない、着るものはない、みんな子供はいるし大変。だから開拓も集落でした方がいいのではないかと、共同で進めるため嘉藤治さんが動き、わたしの父親もお世話になりました。
東根開拓という名前を付けて、水分だけだと6世帯くらいだから志和の人たちにお願いしたり、川東の長岡の開拓農家にも一緒に開拓しようと呼びかけたんです。
嘉藤治さんは共同でやっていくため夜に集まってもらっていた。開拓者には書類を書ける人もいれば、書けない人もいる。嘉藤治さんは大事に取っていた封筒を使って書類の書き方を教えていました。
子供たちのことを心配して牛を飼って牛乳を飲め、鶏を飼って卵を食べろと話していました。当時わたしは中学校を終わったばかりだったが物は粗末にするなよ、体は大事にせよ、とにかくみんなのことを案じてもらった。
進駐軍(敗戦後に駐留していた米軍)の払い下げを受けるため、毎日のようにリュックサックを背負って、歩いてバス停まで行き、県庁に行っていました。
払い下げ品は背広が2着、ずぼんが1着とかシャツが3枚など、食べる物も缶詰とかバターとかそんなものだった。それを夜集まったときにクジ引きで決めます。
日本人の体型に合うものではないが無理やり着て、食べ物は平等に分けていた。とにかく何にもなかったので、あの手この手と考えて補助金を引き出すなど、嘉藤治さんには本当にお世話になりました。
−当時の集落の様子は正式な入植は6世帯、家族が多く農地が欲しいという農家が増反入植という形で3世帯ほど入り、各世帯とも7、8人は家族を抱えていたという。
藤原(艶)=わたしは55年4月13日に北海道から藤原家に嫁いでまいりました。それまで田沢集落(西部開拓道の矢巾町寄り数百メートル先にある集落)にあった家は北海道から嫁をもらうということでブロック建てのワンサイロの家をここに建てたんです。開拓に取り組み、そして嘉藤治さんを知って、この方を誰かが研究して世に出してくれるだろうと頑張ってきました。
−嘉藤治と交流のあった詩人の高村光太郎は翌年の4月2日に亡くなった。
藤原(艶)=何度か訪ねて来たそうですがわたしは高村光太郎には1度も会えませんでした。4月2日に光太郎が亡くなり、その翌日に嘉藤治の孫が生まれ、生まれ変わりだと信じて太郎と名付けたんです。
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