2006年 1月 1日 (日) 

       

■ 〈盛岡ブランドってどんなもの〉大宮神楽 田村麻呂と志波城と

 神楽の系統は山伏神楽が多く、盛岡市内も大半が山伏神楽の中にあって、大宮神社に奉納される大宮神楽は唯一、社風(みやぶり)神楽。この社風神楽は京都の吉田家を本山とする社家の神楽の系統で、盛岡藩10代藩主利敬が名付けたという。

  大宮神社の歴史は古く、円暦年間(782〜806)にアテルイ一族の蝦夷(えみし)の頭領、滝沢郷の高丸が反乱し、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して平定に向かわせた。戦いの舞台が現在の本宮字大宮で、任務遂行が困難のため一時帰朝。伊勢神宮に平定祈願して再下向し、802年に平定できたという。

  再下向の前、伊勢神宮の祈願の際に神宮の内宮と外宮の分霊を賜った。このため神主鈴木母多里麻呂藤原純(鈴木神主家主祖)と藤村淡路守藤原重勝が同行。内宮の分霊を旧岩手山神社付近、外宮の分霊を本宮字荒屋・蛇屋敷の周辺に奉祀(ほうし)。水害のため後年、外宮分霊は現在の大宮に移したという。

  大宮神楽は田村麻呂に同行した神官の一族が受け継ぎ、現在は大宮神楽保存会が伝承、奉納している。

  田村麻呂といえば、桓武天皇の命を受け、蝦夷を平定し、朝廷支配下に収めた将軍として知られる。蝦夷支配のため田村麻呂が築いたのが大宮神社に近い志波城だ。志波城は803年に造営された陸奥国最北端の古代城柵で、「日本紀略」には「造志波城使坂上田村麻呂、辞見(任地へ出発)する」と記されている。水害に悩まされたことや朝廷の政策転換などにより10年ほどで廃絶となり、矢巾町に造営した徳丹城に移転した。

  志波城跡は1976〜77年の東北自動車道建設に伴う県教委の発掘調査やその後の市教委の調査で志波城跡と特定され、84年に約63万6000平方メートルが国史跡に指定された。発掘調査の継続とともに、史跡公園整備が進められ、外郭南辺の南門や築地(ついじ)塀、政庁南辺の南門や築地塀などが復元されている。

  朝廷が東北を支配下に入れるまでの、774(宝亀5)年から811(弘仁2)年までの38年戦争の中で、田村麻呂は征討の任に3度就いている。3回目の801〜02年が、アテルイ、モレを降伏させた戦いだ。

  朝廷寄りの歴史からは英雄として見られるが、東北蝦夷の立場からは敵にほかならない。しかし、東北には数々の田村麻呂伝説が散見される。

  岩手にも県南を中心に見られるが、鬼とのかかわりで伝説化しているのが目に付く。蝦夷が鬼に転じたものとされるが、岩手の由来と語られる鬼の手形も田村麻呂の登場する説がある。

  今は東顕寺境内にある三ツ石神社の大きな3つの石は、田村麻呂に降伏した3人の蝦夷が、手形を押して誓約にしたという。岩手山のふもとに近い滝沢村の鬼越峠など鬼の付く地名は、その関連だという話も伝わる。

  大宮神社に戻って、社殿には「多賀神楽絵額」がある。市指定民俗文化財の絵額は1808(文化5)年に製作され、榊山稲荷神社に奉納されたもので、種目の12座が12面に描かれている。

  多賀神楽は利敬が多賀明神の社人を1806年に江戸へ留学させて習得させた里神楽。種目の一つ「玉取り」には鬼が登場する。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします