2006年 1月 15日 (日) 

       

■ 〈盛岡百景〉53 五百羅漢のある報恩寺

     
  1978年の築ながら歴史の重厚さを醸す報恩寺の山門  
 
1978年の築ながら歴史の重厚さを醸す報恩寺の山門
 
  1783(天明3)年は全国的に飢饉(ききん)に見舞われた。盛岡藩でも7割減収という惨たんたる出来。餓死者4万人のほか病死者2万3千人。さらには盛岡藩から逃げ出した者が3千人いたという。

  盛岡藩では何十回と凶作があった。中でも元禄の飢饉(特に1695年と1702年)、宝暦の飢饉(1755年)、天明の飢饉(83〜87年)、天保の飢饉(1832〜38)は4大飢饉と呼ばれ、甚大な被害をもたらしたと伝えられる。

  飢饉のたびに城下で窮民救済が取られた。天明の飢饉で収容場所となった一つが現名須川町の報恩寺。天明3年は冷夏で、報恩寺には夏から救済小屋が建てられ領民は遠来からも来て、領内で冒頭のような犠牲者が出た。

  その130年後、盛岡中学の生徒だった宮沢賢治は3月に退寮処分を受け、清養院さらに徳玄寺に下宿していた。9月、報恩寺住職に参禅している。この1913年、岩手は未曾有の大凶作に襲われた。寒中、杉木立から山門をくぐる。一面を白で覆われ、人けの途絶えた境内。土用のころも綿入れを着なければならなかったという伝えもあり、丸裸になった冬の広葉樹から「サムサノナツ」に思いをはせる。

  報恩寺は南部家13代守行によって1394(応永1)年、三戸に開創され、父の菩提を弔う思いから命名されたという。初代盛岡藩主利直の時代、盛岡へ移った。

  報恩寺が市民によく知られるのは、市文化財の木造五百羅漢像が一番の理由だろう。羅漢像は同寺第17世曇樹和尚が大願主となり、京都の仏師によって彫られた。1731(享保16)年から34年までかかった。坐像で約63センチ、立像で約103センチの高さの木像は本堂に向かって左手の羅漢堂に収められている。現存は499体だが、通し番号の墨書から500体が作られたと推測できる。

  羅漢堂は1735年に建てられ、1850(嘉永3)年に改築された。本堂や庫裏、山門などは昭和以降の建築で、羅漢堂は取り立てて古く市文化財に指定されている。みかげ石の土台に方形造りの白壁の土蔵仕上げ。屋根の傾斜ラインは方形の単調さを感じさせない変化を生み出している。(井上忠晴記者)

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