2006年 2月 1日 (水) 

       

■ 〈たきびの詩人巽聖歌〉202 小川達雄 戦争と歌人2

 前回には、昭和十二年七月七日に勃発した蘆溝橋の事件について、事実とは著しく離れた、景気づけだけの見出しがあったことを記したが、もう一つは、その隣に掲げた同年七月十二日朝日の報道について、である。またまたとんでもない記事で、読みながらアタマが痛くなってくるけれども、その見出しでは、事件以後の中国に対するわが国の態度を、こう記していた。

  「計画的の武力抗日歴然
    断乎・北支派兵に決定
       政府中外に重大声明」
  その時、事変が急速に拡大されたことは誰でも知っているが、しかし、陸軍省内部での激しい討論と、さらに外務省、内閣での意見調整、現地情勢の変化などの要因がからんで、少なくともその時点での「派兵決定」は、まだなかったはずである。

  この時の状況をわかりやすく整理したのは『太平洋戦争への道』4−朝日新聞社−−であるが、順序を追って記すと、まず十一日には五相会談(首・外・蔵・陸・海相)および閣議では米内海相から派兵反対の意見が述べられ、そこで不拡大方針の堅持と、動員後に派兵の必要がなくなった時には中止を条件として、ひとまず三個師団派遣という陸軍案を承認した。

  次いで閣議終了後に、現地停戦協定成立の見込みが強い、という駐屯軍からの入電があり、参謀本部は内地師団の動員見合わせの処置と、ただ不慮の事態に備えるための満州及び朝鮮からの派遣に限っての発令を行った。

  しかし、停戦協定の成立によって生じた情勢の変化は、それを好まない強硬派によって正確には伝えられず、翌十二日の各新聞は、陸軍省新聞班の指導により、第一面に大きく、派兵に関する政府声明を掲げるに至った。

  わたしはこれまで、いわゆる支那事変に関しては、その概略を承知していたにすぎないが、今回、いちいちの場面の念押しをしてみて、戦争気分の国民的な高潮の始まりというのか、その具体的な節目をいくつか見たように思う。

  歌人たちの事変当初の作品には、次のようなものがあった。

  汗かきて土用の入りのけふすがしすめら
  いくさ火蓋きつたり      川田順
  これは『心の花』昭和十三年一月号(以下、昭131、などと略記)、石榑茂氏「戦争短歌の性格」に挙げられた事変の発端の歌から引用したが氏はこう解説していた。

  「一人の人間が護国の鬼といふか神様といふか崇高なものになつてゆく道程にある自分をよく見つめてゐる歌だとおもふ」

  これは、ものを云うその以前に、もう、感極まったらしい。歌人はしばしば自己陶酔に陥って、このように言ってしまうことがあるようだ。同じ雑誌の主宰の歌を一つ。

  日の本の国つみ神の荒御魂あらぶる時に
  あひにけらずや  昭1210、佐々木信綱
  主宰クラスには、戦争賛美の歌が多い。





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