2006年 2月 1日 (水) 

       

■ 〈盛岡ことば入門〉280 黒澤勉 むじぇごどしたなー

 一九四、かわいそうに−むじぇ・むじぇーやな
 
  むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす 芭蕉(むじぇーやな かぷとのすたさ きりぎりす)
  平安時代末期の武将に斎藤実盛という人がいました。初め源義朝に、後に平宗盛に仕えました。手柄をたてて義朝から甲を賜りました。七十三歳の年になって木曽義仲を討つべく奮戦しましたが、手塚光盛に討たれて死にました。義仲が敵の武将の首を検分したところ、それは白髪を黒く染めた実盛の首であることが分かり、義仲は涙を落としながら「あな、むざんやな、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」と語った、と言います。(謡曲「実盛」)

  芭蕉の句は、多田八幡を参詣した折、実盛の遺品と言われる甲を見た時の感慨を詠んだもので、老いの身で甲をかぶって奮戦した実盛をいたみ、それも今は昔語りとなって甲の下で哀れを誘うようにこおろぎが鳴いている、というのです。こおろぎのことを古くは「きりぎりす」と言いましたが、盛岡弁でも「きりぎりす」です。

  ここで取り上げたいのは、「むざん」(無惨・無残)という言葉です。この言葉はもともと仏教語で「破戒無慙(むざん)」とか「放逸無慙」などと四字熟語として使われることが多く、罪を犯しながら省みて恥じることのないことを言いました。

  それが、残酷だ、という意味になり、さらに残酷なものを見るとかわいそうだと感じることから、ふびんだとか、かわいそうだ、という意味になりました。

  発音も「むざん」から「むぞう」に変化していきましたが、発音や意味が変化していったということは、それだけ多く使われたということでもあります。「使った」といっても「書かれた」のではなく、日常よく「語られた」ということです。

  言葉の意味、発音は「語られる」うちに変化していくのであって、「書いて」いくうちに変化するのではありません。

  書き言葉は変化しにくいのに対して、語られる言葉は長い歳月のうちに、また地域の違いによって変化していきます。

  盛岡弁では、この「むざん」「むぞう」が「むじぇ」となってよく使われました。 大沢俊子さんによると、昔はよく雫石川で、子供が「あっぷくって」(おぼれて)死んだそうで、死体が浮かんで流れていくのを「かわながれだ、かわながれだ」(意味からいうなら「川さ、流れだ」と言うところでしょう)と叫んで追ったといいます。

  溺(おぼ)れた子を見ると「かわさ、へって、しんだずー(死んだそうだ)、むじぇごどしたなー」などと言いました。

  また、かわいそうな子供の登場する映画など見ると「むじぇくて、むじぇくて、みでらえなくて(見ていられなくて)、ではてしまった(出てしまった)」などと言いました。

  動詞にすると「むじぇがる」(気の毒がる)「むじぇぐなる」(かわいそうになる)です。「むじぇ」の下に感動詞がついて「むじぇやな」と言ったり、「むじぇけやな」とか「むじぇこやな」と「け」や「こ」を添えたりしました。

  「むじぇ」は、子供に対して使われることが多かったようです。昔は幼い子供がつらい仕事をさせられている、熱を出して苦しんでいる、汚い着物を着て、ろくに食事を与えられない、そんな場面を見ることが多く、そんなあわれな子供を見ると「むじぇ」という言葉が自然に出てきたようです。

  もちろん子供に対してだけでなく、大人に対しても−たとえばぼけたお年寄りとか、貧しく飢えている人とか、病気で苦しんでいる人とか、広く苦しむ人に対する共感の心を表しているのが「むじぇ」です。

  「むじぇ」は共通語でいうと「かわいそうだ」ということです。「かわいそう」は「かわいい」から作られた言葉で、「かわいい」は古語でいうと「かはゆし」です。「かはゆし」の語源は「かほはゆし(顔映)」で、もともと、おもはゆい、はずかしい、という意味でした。それが物を、まともに見ていられないという意味から、ふびんだという意味になり、やがて愛らしいという意味へ変化していきました。

  「うれしそう」「きびしそう」などというときの「そう」が下についた「かわいそう」という言葉も、もともとふびんだ、愛らしい、両方の意味がありましたが、「かわいい」が専ら、愛らしい、という意味でつかわれるようになったために、「かわいそう」は、ふびんだ、という意味で使われるようになった、とされています。

  「かわいい」という言葉と「かわいそう」という言葉がこのようにともに「顔映ゆし」を語源とする言葉だったとは、興味深いことです。

  盛岡弁では、かわいいことは「めんこい」、ふびんだというときは「むじぇ」ですから、「かわいい」という言葉も、「かわいそう」という言葉も使いません。「むじぇ」という言葉は、かつて日常しばしば使われていました。それだけかわいそうな人が多かったし、かわいそうに思う、つまり他者の苦しみに同情、共感する人が多かったということを示しています。

  「むじぇーやな」という言葉には、そうした盛岡の人のやさしさ、心の温かさがよく表れていると思います。

  人情の薄れた現代に「むじぇーやな」という言葉と心を復活させたい、などと思うのはわたし一人でしょうか。(岩手医大教養部教授)







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