■ 〈古文書を旅する〉100 工藤利悦 麻布お屋敷火災、重信公お立ち退きのこと
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■麻布お屋敷火災、重信公お立ち退きのこと
一、麻布お屋敷に重信公は御隠居なり。実信公(隼人正後早世)、主税・主計・右近と共に住居せらる。ある時火災ありて重信公のお構えが炎上す。実信公のお構えは焼けざりければ落書。
「南部にも主税およばぬ南風 隼人飛ひ越へて隠居 丸焼け」。
【追記】「この節、主計君がお屋敷の間より出火にて、隼人正君のお館を飛び越えて重信公のお館焼失す。それよりお屋敷の外、百姓町まで焼失す。段々広尾の方へ焼け候よし、元禄十五年午の二月十一日のことなり。これによって重信公は渋谷邸へお退く」。
【頭註】一、元禄五年六月、重信公御年七十七歳にてご隠居。のち麻布山荘に住居したまい、同十五年御年八十七歳にて六月十八日ご逝去なり。(「篤焉家訓」壱之巻)
【解説】
■麻布下屋敷焼亡の記録
元禄十五年(一七〇三年)に南部家の下屋敷の一つであった麻布邸が火災で焼亡したことを記述している。情景を紹介しているものだが、実は火事に関係して落書が飛び交ったことに主眼があるようにも読める。
『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」は、元禄十五年二月十一日条に「四谷新宿太宗寺の辺より出火し、おりふし風はげしく青山まで焼けひろごり、麻布に離第(幕府の別邸)にうつり、品川の御殿もやけうせ、おなじ駅に及びてやみぬ」。
『雑書』(元禄十五年二月十九日条)には「江戸にて去る十一日、辰下刻(午前九時頃)に内藤宿(新宿区)より出火、北風烈しく青山宿(港区・以下同じ)・百人町・麻布・弐本榎・三田・芝・品川(品川区・以下同じ)・鈴ケ森まで焼失、酉刻(夕刻・六時頃)に火鎮み申すよし、右の火事にて御下屋敷御本屋、重信様御家、その外惣御長屋・御山御茶屋残らず焼失、御道貝入り候御土蔵は何も残り申す内、雑物入り候御土蔵二つ焼失候得共、御道貝は残らず相出し申すよし、芝の御蔵屋敷は別条これ無きよし、これに依って重信様・主税(政信)様は渋屋御屋敷へ御退き、若殿(久信・後の信恩)様は御上屋敷へ入りなしなされ、奥様には毛利甲州様(五万石・毛利綱元)へ入りなしなされ、主計様(勝信)には白銀御屋敷へ御退く、何れ様にも御恙無(つつがなく)御座候旨、去十二日付北九兵衛(江戸家老)より申し来たる云々」と見える。
主税は藩主行信の次弟政信。主計は同三弟勝信。右近は四弟通信(のち八戸藩三代目を相続する)のこと。
本文【追記】の中に「主計君が御屋鋪の間より出火」とあることは、大火の最中、自火焼亡ということであろうか。しかし、落書について言えば、隼人正実信は世子。元禄五年に従五位下隼人正に叙任し聡明な人物と知られるが、この火事の二年前(元禄十三年)に惜しまれて病死している。そこから生じる疑問は、後世の附会の説と見すごしてよい問題かもしれないが、だれが、何の意図をもって今は無き人物を敢えて巻き込み歌を詠んだのか。不自然な落書の存在である。
この屋敷は、東京都港区麻布にあった。維新後、政府に桜田の上屋敷を明け渡した南部家が一時この屋敷に居住している。のち有栖川宮邸となり、現在は有栖川記念公園(園内に東京都立中央図書館、麻布野球場などが点在している)として都民憩いの場となっている。
「公儀え諸御屋敷御届之事」には、上屋敷のほか数ある屋敷を記載する中に「拝領 下御屋鋪 麻布一本松 二万八千坪」(『篤焉家訓』八之巻)とあり、「江戸麻布一本松御下屋敷坪数、北側百七拾二間、西側四十七間二尺七寸 南側百八拾二間 山通二百二拾二間、この坪数二万四百三十七坪」とする記録(『内史略』)もある。
■浅野内匠頭家と屋敷を等価交換す
有栖川記念公園付近の地図を見ると、坂の名称「南部坂」が目に飛び込む。「南部坂」と言えば連想されるのが、講談や歌舞伎の忠臣蔵の一幕「南部坂雪の別れ」。大石内蔵助が討ち入りの日の夕刻、亡君浅野内匠頭の奥方瑶泉院を訪れ、ひそかに最後の別れを告げたという話。
実はこの話に出てくる「南部坂」は赤坂にある坂の名称。その経緯を言えば、当初、南部家の下屋敷は赤坂にあった。明暦二年(一六五六年)に麻布にある浅野内匠頭の屋敷と等価交換をしたことから「南部坂」の名が二カ所に残ったものである。
『篤焉家訓』十九之巻「麻布御下屋敷御引請始末並びに南部坂の事」の条に、「重直公御代明暦二年丙申二月五日、浅野内匠頭殿の御下屋鋪、相対替の事、(幕府へ)御伺の通り仰せ出ださる。申三月五日に内匠頭殿より請取り、荒高久庄左衛門(此名字本書の儘)・山田作左衛門の両人、此方は夏井門兵衛・原平兵衛両人にて相渡し、御門辻番所、御持仏堂は右屋鋪に添え相渡し候事、(許可の老中奉書は割愛す)」。
また同書十四之巻「江戸諸所御屋鋪御調御普請の事」の条には「麻布御屋敷浅野内匠頭殿より金九百両にて御調、右代を両度に遣わされ御普請、明暦二年酉四月下旬に御取付、十二月十八日済み、同十九日巳の刻御移徒(移転すること)、右御普請惣奉行は桜庭兵助、下田覚左衛門、その外大勢懸りこれ有あり、これを略す。右入方(費用)は左の通」。
小判九千二百七両壱歩、内訳計九千二百八両三歩、内訳計一両二歩不足、内八千四拾弐両、御家中御茶屋御泉水御入方、百八拾両三歩、御植木御庭石代、六拾四両、御庭石所々より集候代共」弐拾弐両、万御道具代、九百両、御屋鋪代、合金九千三百三両壱歩也(計算によれば、内訳計は九千二百八両三歩となり、合計に対して九十四両二歩不足)とある。
以来、麻布の屋敷が南部家の下屋敷となった。ちなみに、南部坂について『角川日本地名大辞典』は次のように記述している。
イ 港区南麻布四・五丁目の境をなす坂、ドイツ連邦共和国大使館と有栖川公園の間を西へくだる道。このあたりは陸奥国盛岡藩主南部信濃守中屋敷があったので盛岡町の町名が起こり、坂を南部坂といった。現有栖川記念公園は旧南部屋敷の跡地。【註】安政の切絵図に「南部信濃守中屋敷」とある。当時一時的に中屋敷と称した時期があったらしい。
ロ 港区六本木二丁目と赤坂二丁目の境をなす坂。難歩坂とも書き、なんぽ坂ともいう。「画報」に「昔、南部邸ありしを以て初め南部坂と称せり、元禄年間温清軒の江戸絵図を見るに、ナンブサカと載せて南部の邸なし、されば其以前なるべし。江戸砂子に南部坂、万延の切絵図また之に同じ云々」と見える。
■麻布屋敷類焼の歴史
火事とけんかは江戸の華と称されるが、上屋敷ほか、江戸に点在していた南部家の各屋敷とも被災の歴史を持っている。麻布屋敷の被災状況を抽出すれば次の通りになる。
○寛文六丙午年(一六六六年)十一月二十八日重信公御代、江戸御下屋鋪火事出来、御長屋土蔵ばかり残る。
○元禄十二乙卯年(一六九九年)三月廿七日 行信公御代御下屋鋪焼失
○重信公澁谷御屋敷え御立退と有之 未詳(註・誤伝か)
○同十五壬午年(一七〇二年)二月十一日行信公御代麻布御下屋鋪御類焼 重信公澁谷御屋鋪え御立ち除く(以上『篤焉家訓』二十二之巻「江戸御屋敷御類焼之事」)
○享保七年(一七二二年)正月九日下御屋鋪御長屋之内真木小屋より出火、早速火鎮。此節吉助様御座なされ、御家中掟之ために候間御慎み遊ばさるべく旨仰せ出さる 御附人遠慮 此吉助様は利視公の御幼名也。年代可考
○享保十年巳(一七二五年)六月四日利幹公薨。同月二十七日下の御屋敷より御発駕七月十一日夜御着府、二十一日御家督御蒙。(以上『篤焉家訓』十四之巻「享保年中下屋敷出火之事」)
○享保十六辛亥年(一七三一年)六月二十六日 利視公御代、麻布御屋鋪南の方表長屋より出火、火元村岡丹治 早速消し留め
○延享二乙丑年(一七四五年)二月十二日 利視公御代、麻布御下屋鋪御長屋通り御類焼 御土蔵十二の内五つ焼失す
○文化十一甲戌年(一八一四年)十月八日夜 利敬公御代丑下刻麻布御下屋鋪観光院様御住居向御類焼(以上『篤焉家訓』二十二之巻「江戸御屋敷御類焼之事」)
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