どの短歌雑誌でも、九月号には戦争関係の歌が多くなった。それは出詠、選歌、編集のことがあって、活字になるのはふつう二ケ月後、という事情によるが、これに関して、『多磨』昭和十二年十月号の佐野四郎氏「事変と短歌」では、こう記していた。
「日支事変の進展と共に、この国家的民
族的重大事に対する歌人の関心も亦白熱
化して、事変関係の作歌は九月号発表各
誌の分だけでも一萬首に達するであらう
と推察される。」
九月号だけで一万首というのは、あるいは多すぎると受け取られるかもしれない。しかし全国の短歌雑誌はおよそ三百余、その一冊に戦争の歌は三十首、とまず勘定してみると、総数はたちまち一万に達してしまう。
この戦争は、初期には北支事変と称し、九月二日の内閣告示によって支那事変、と呼称されることになったが、この支那事変関係の歌は、じつにおびただしい数に上ったにちがいない。そして、その最初に多かったのは、なんといっても、出征に関する歌であった。
御堂筋朝まだ早き陽のかげろふ召さるる
兵のトラックがつづきぬ
『多磨』昭129 吉田恵弘
うち笑みて歓呼に応ふる兵観れば炎天の
日ざしははるけくしあらむ 同
時至り国民皆兵の心つよし歩調力ありて
目先すぐる剣 同 平塚伊都子
町の炎天に影あふるものただ暑し出征兵
のゆきてなほ人つづく 同 水谷静子
こうした作品に応じて、主宰の白秋はこう述べていた。
「北支事変がいよいよ拡大して、全面的
の戦闘になった。多磨の会員や、周囲の
人々も続々として出征また召集されさう
である。
国民詩人としての私の報国の一念は、
国民歌謡にある。軍歌にある。この筆に
ある。筆にある。」
この出征について、数は少ないけれども、悲しみの面からのべた歌をあげておこう。
ひとり子をいくさの中におくることもし
ばらく忘れ虫の声をきく
『心の花』昭129 萩倉ちさゑ
水足りて田はいち面にしげれどもわが村
の壮者多く召されし
『潮音』同 安田尚義
乳子(メコ)抱きてむせび泣くをみな只
一人兵を送りてゐたりけるとぞ
『心の花』昭129 小宮良太郎
兵送るどよめきにたゞにけおされてたち
すくむ人よ齢老いたる 同
この人は、翌月にも次の二首を載せた。
召されゆきて幾日か経つる人の家のくら
しひそけし朝夜に見れば
父は召されし五人(イツタリ)の子のそ
の母の夕炊(ユウカシ)きする水の音き
こゆ
たくさんの中からこうした歌を見つけると、万葉巻十四の、防人歌の中から悲しみの歌をひろい出したような気がしてくる。 |