明治39年1月、日露戦争出征軍人慰問金募金の収支決算を「加奈太新報」紙に広告の体裁で掲載した。それによると、合計523ドル85セントを募金し、63人の応召兵それぞれに各5ドルを見舞い、諸経費を差し引いた残金180ドルは「傷病兵救護の費に充てたくと存じ、今般当市発の便船にて日本赤十字社へ在留日本人有志者の名義を以て帝国領事館経由寄付の手続相運び申候。右御了承相成度此段広告候也。発企者長嶺げん子、中山訊四郎、森一馬」という子細になった。
中山訊四郎(茨城出身)は当時パウエル街で旅館を経営していたが、加奈陀日本人会、商業組合、言論界の最有力者であった。森一馬(和歌山出身)は代書業や料亭を営んでおり、日本人倶楽部の創設者であった。
両名とも、日系社会を代表する人物と見なされていた。ゲンは2人を口説き落として、再三、奉仕や募金活動の看板に仕立てあげたのである。
同年3月、東京櫻井女塾の塾長櫻井チカ子がバンクーバーを訪問した。チカ子は、妹貞が東京女子師範学校卒業と同時に奉職した櫻井女学校の校主であった。ゲンとも旧知の間柄だった。「女史は廿八日教会で一場の講話を試みて多大の喝采を博した。」と大鑑附に記されている。
ゲンは講演会の設営と歓待行事に奔走した。櫻井女史は明治5年ごろより伝導生活に入ったと同書で説明されている。ゲンや貞の信仰生活と轍を一にしていることから、2人がキリスト教に入信した経緯にも大いにかかわりがあった人物と目される。
同年5月19日、末妹ヨシの夫、杉村濬が任地ブラジルで急逝した。濬の孫に当たる福島新吾氏は「第3代ブラジル兼アルゼンチン駐在弁理公使杉村濬は任地ペトロポリスで倒れた。その時ブラジル政府は手厚い葬儀を行い、その遺体をリオ・デ・ジャネイロのサン・ジョアン・バチスタ墓地に葬り、立派な大理石の墓を設けた。」と記している。
悲報は、外務省、バンクーバー領事館経由で旬日後にゲンに届いた。桜井女史との歓談から、一転して奈落の底に転落した思いであった。
同年7月下旬、シアトルで夫の遺影を懐いたヨシと3人のめいと再会した。その場に次妹貞の夫本多庸一も居合わせた。
「此時彼(本多庸一)の妻の妹婿にてブラジルにて客死した公使杉村濬の妻と子とが帰国に際してシアトルに来たり彼はその一行に逢った。『国家の為とはいへ夫と父の骨を異域に葬りて母子四人万里の山海を越へて故郷に帰るの情慰むるに言無し。』と彼は記した。この子息の一人は後年父の志を継ぎて外交官となった杉村陽太郎其人であった。」(岡田哲蔵著「本多庸一伝」)
本多庸一の慟哭(どうこく)をしのばせる一文である。ゲン、ヨシとその娘たちの悲嘆はいかばかりであったか。
その時、ヨシは39歳、長女麻子13歳、次女波子11歳、三女鷹子は8歳だった。そしてゲンは46歳に達していた。(3人の娘の名の表記は、盛岡先人記念館所蔵の写真「杉村濬様御家庭」、明治43年、その裏書き説明による)
ゲンは一行とシアトルで別れ、また独りでバンクーバーへ帰った。海路であったか、陸路乗合馬車であったか今は知る術もない。 |