■ 〈水墨画の魅力〉18 橋本哲郎 芸術の定義は未完にあり
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初めて水墨画を描いてみたいという方から何を描いたらよいでしょうと聞かれ、困ったことがあります。
人に描き方を教えるということは、描こうとする人の対象を見る目をつんでしまうことで、慎まなければならないことだと中川一政が話されています。
せっかくフレッシュな感覚で始めようとするとき、あえてこのように描けと見方から技術まで押しつけては、絵を描く楽しみを奪ってしまうことになりかねません。
中国では最初に四君子を教えると聞いたことがあります。古来、いろいろな名手が描き尽くしているモチーフです。儒教の君子になぞらえて植物をモチーフにしたもので、さまざまな技法が勉強できるといわれます。
蘭は心優しい君子の姿
菊はかぐわしく気高い人格
竹は節を重んじる忠臣
梅は清明にして春の静けさの如き
中国で席画といってよく皆が見ている前でいろいろ描いて見せる風習があるといいます。書と違い絵の場合、果たしてどうだろうと疑問に感じておりましたら、やはりおられました。東山魁夷だけは席画に応じられなかったそうです。
よく「席画をお見せします。何を描いてお見せしましょうか」という先生がおります。画家であるから何でも描かなければと勘違いしている人がおりますが、画家は何でも描けるのではなく、芸術作品を描くものだと思うのです。一枚だけでも良いのです。芸術作品を描ければ。描けないから何枚も描き続けるのです。納得のいく絵が描けたらそれで終わりでいいじゃないですか。それ以後に描く絵は自慢しか残らないでしょうし、自慢だけの絵なんて一文の価値もないと思います。
絵はうまく見えるように描くものではないのです。絶えず芸術作品に挑戦しなくては、芸術家ではないと思います。
巴人先生が、わたしたちのうまく描こうとする心を戒めてくれました。
「水墨画ほど微妙で深遠なものはない。そしてその描き出される絵は生命の鼓動を秘め、瞬時の中に悠久をたたえている。紙に墨で何かを表現する白と黒だけの世界だが、例え黒一色でもいいから何かを表現したいという欲求がそこにはある。いわば描く人と描かれるものとか一体になっている境地である。だからテクニックに重点を置いてはならない。テクニックは描く人と描かれる人を分離させてしまう…。外見の完成度に陥らず生命感を失わないでほしいとの老婆心である。何事でもそうだが、出来上がったようなことになっては死と同じである。芸術の定義とは未完にある。だから生き生きとした生命の川がいつも流れていなければならない」(岩崎巴人)
朝日新聞に小学3年の女の子が、母の好きな水上勉さんの挿絵を描いていた画家の渡辺さんに、毎日絵手紙を出そうと続けて1600枚出したそうです。感激した渡辺さんが自分だけの宝物にしておくのはもったいないと都内のギャラリーで森岡実苅絵手紙展を開いてくれたという記事が出ていました。
赤いほおずきの絵に、本当の自分ってどんなんだろう? 自分が一番知っているはずなのにとコメントが添えてあるはがきで、きれいな心の中学1年生の女の子の感受性は強く素晴らしい記録を残してくれたものです。
同じ日、風間完の死亡記事が出ていました。新聞小説の挿絵第一人者と紹介されていましたが、彼の描いた女性像がとても美しく印象的でした。
生まれるもの、死んでゆくもの。これらの感動を与えてくれた人々の作品は残ると思います。
今情報の氾らんに振り回され、日本文化の行く末を心配するより、納得のいく絵を描くことと思いますが、年のせいか雑音をすべて吸収しようとつま立てしています。情けない。
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