2006年 3月 3日 (金) 

       

■ 古文書を旅する〉104 工藤利悦 大坂冬の陣で遅れとった利直を諏訪部がとりなし

  ■諏訪部惣右衛門定吉殿お親みの事、並びに薫陸をご献上
  一、諏訪部惣右衛門殿へご念頃は慶長十九年冬大坂御陣の時、利直公遅くお登り遊ばされ候に付き、たびたび南部は何とて遅く候やと権現様(徳川家康)はお尋ねなされ候よし。道中最上の内尾羽根沢(山形県)にて江戸ご発足の趣きをお聞きなされ、御馬廻りばかりにてお登りなされ候ところに、権現様はかな川(神奈川・横浜市内)にご一宿の日、利直公江戸へお着きなされ、直々金川(神奈川)へ御通し御本陣へお出で遊ばされ候えども、時分がらゆえ、誰もお取り次ぎの衆これなく、お目見え相成りかねお帰りの節、ご本陣前にて惣右衛門殿にお逢いなされ候間、よいところにてお目にかかり候、遠国の事ゆえご発足うけたまわずまかり登り、道中最上の内尾羽根沢にてうけたまわり、ようよう御馬廻りばかりにてただ今これへ走りまいり候えども、いずこにてもお取り次ぎの人これなく、いかにも上聞に達すべくさまご座なく候。

  よろしきようにご相談なし下されたくと仰せられ候えば、惣右衛門殿仰せられ候は、この節誰を以て仰せ上げられ、お目見えなさるべくにはご座なく候。明朝にお立ちの節、金川宿外れにご座なさるべく、拙者は御馬脇に立ち候間、右の段これ申し上ぐべく、仰せ合わせられ、惣右衛門殿が指図の通になされ候ところ、権現様(将軍家の誤りか)遠方よりご覧遊ばされ、あれは南部にてはこれなきやと上意のところ、惣右衛門殿、右の旨をお取り合わせなされ候えば、これへまいり候えとの上意にてお目見え遊ばされ候。

  上意には、何とて遅く候やと、一方の小口をもお頼み遊ばされたく思し召され候て待ちなされ候ところ、遅く候えて残念に思し召し置かせられ候、申し上げ候趣き、もっともに思し召し候。

  左候はば御後備えをお頼みなさるべくよしにて、茨木(大阪府茨木市)の御陣場になる。その節高安の陣場へ惣右衛門殿お使いにてお茶湯お相手にお上り、万々ご首尾合いよきに付き、諏訪部殿へ御代々ご念頃なさるべくとの御書を通しなし置かせられ候よし。

  一、高安の御陣場にて十二月中旬、家康公が近臣に仰せけるは、本朝の薫陸(くんろく)は南部に生ずるを最上とすと称美のお物語ありける旨、利直公伝え聞こし召したまい、幸い貯(たくわい)ける所の薫陸を進上したまう。家康公ご喜悦にてこれ則ち聞きしに違わぬ琥珀なり、陣中不慮(おもいがけず)の到来、利直希(まれ)あるの嗜(たしなみ)なりと、ご気色に叶いけるとなり。

  一、惣御勢支度次第追い付きたてまつり候ように仰せ付けられ、お手廻りご人数ばかりにて十月下旬に盛岡をご発足なされ候ところ、両御所様江戸駿府ともにご出馬の旨をお聞きなされ、直々お急ぎ十一月十五日の朝伏見へお出でのところ、秀忠公ご発駕のところにてお目見えなされ、大御所様へお目見えつかまつり候ように御意、直々奈良へお通し、翌十六日奈良と法隆寺の間にて追い付きたてまつり、ようようお目見えという。

  この節将軍秀忠公は江府(江戸)にご在城、大御所家康公は駿府にご在城なり。奥南旧指録に利直公には十月下旬に糠部を立ちて馳せ上り、尾羽根沢にいたりたまえば、はや両将軍は駿(駿河)武(武蔵・江戸)をご発向の聞へありけるゆえ、利直公手廻りの兵ばかり引具し、早々江府に参着ある。
  その日将軍武州の内金川に御宿陣、直ちに馳せたまいて諏訪部殿の詞(ことば)のごとくし、翌朝宿はづれにて待ちたまうに、将軍、利直公を見たまいあれば、南部にあらずやとのたまうに付き、諏訪部氏が取りなしたまう。よって墨付の一紙を送りたまうと言う。

  十一月十五日朝、利直公伏見へ参着、秀忠公は伏見を発したまうに出逢いたまい、早々馳せ参り太儀の至り、これより家康公へまいるべしとのたまうゆえ、奈良に趣きたまう。翌十六日奈良と法隆寺の間にて家康公の御陣へ追い付きたまう。この時取次人なく、諏訪部氏が執りなしたまいけるとも言う。(「篤焉家訓」)

 【解説】
  諏訪部惣右衛門は諱を定吉といい、代々相模小田原(神奈川県)の北条氏に仕えた家柄。天正十八年(一五九〇年)に北条氏滅亡の後浪人となり、文禄元年(一五九二年)に肥前名護屋(佐賀県)で家康に召し抱えられ、八条流馬術師範として仕えた人物である。大坂の陣の当時は八百三十石を知行し、承応二年(一六五三年)に死去した。享年八十六(『寛政重修諸家譜』)

  この説話は、慶長十九年(一六一四年)に大坂冬の陣が起こるや、徳川家の檄(げき)により出陣したが、本陣はすでに江戸を出陣。遅れをとった利直はとりつく島がないときに諏訪部氏の取りなしを得て無事に軍陣の列に入ることが出来たという筋書き。

  諏訪部家は南部家にとって御家存亡にかかわる大事な家として伝える逸話である。いま一つは、天下一品とされる南部の琥珀(薫陸)を利直は戦場に持参する嗜(たしな)みと、家康がその琥珀を話題にしていることを聞きつけ、タイミングを逸せず献上。家康の意を射止めたとする逸話である。
 
  ■ 南部家の危機を救った諏訪部惣右衛門
  南部家の廻りに大坂の陣に関する記録は、ほとんど伝存していない。その中から南部家を透して大坂の陣を見ることは至難の業であるが、『祐清私記』によれば、この年の夏頃(四月〜六月)には盛岡にも上方で風雲を告げる風聞が伝えられ、物価は一割・二割高に上昇していること、馬買い商人の到来が足しげくなり、立派な馬よりも廉価な馬が盛んに買われていることを伝えている(「大坂ものさわがしき事」)。

  当時、盛岡城内の様子は分からないが、十月中旬に至って早打ちが盛岡に到来、その趣によれば、十月三日に諸大名が江戸城に登城し、東国・奥州の大名に出陣命令が出されたというものであった。弘前ではいち早く、七月下旬には津軽為信は弘前を進発している(『津軽一統志』)とあるが、いささか早すぎるような気もする。

  『徳川実紀』によれば、関東奥羽の諸大名に対する陣触れは十月四日。江戸城修築に従事していた西国の諸大名へも同日、帰国の上、出陣の用意を命じている。当時、利直は在国中であったというが、この報に接して対応を協議し、その数日後の某日に盛岡を出発したという。

  本文によれば「道中最上の内尾羽根沢(山形県)にて(将軍秀忠が)江戸御発足の趣きを御聞きなされ」とある。家康が駿府を出陣したのは十月十一日、秀忠が二十万余騎を率いて江戸を出陣したのは十月二十三日。利直はこの日に未だ山形在にあったということである。

  一方、伊達政宗はこれより先、十月十日に仙台を出馬、十七日には将軍に拝謁して第一の先手となり、二十三日には大津(滋賀県)に着陣している。同二十一日には米沢の上杉景勝が第二の先手となり、十一月十二日に秋田の佐竹義宣と共に二条城で家康と対面している。
  南部家の対応がいかに遅れていたかが瞭然である。この危機を諏訪部惣右衛門によって救われたのである。
 
  ■ 幕府御馬役諏訪部家として親交
  南部家と諏訪部家とは、幕府御馬役諏訪部家としての親交が永く続いた。盛岡に到来した御馬買衆の氏名を見ると、寛永二十年(一六四三年)に諏訪部源二郎定矩、明暦三年(一六五七年)・万治二年(一六五九年)・同三年・寛文三年(一六六三年)・同五年・同七年・同九年・同十一年・延宝元年(一六七三年)・同三年・同五年・同七年にはその子文九郎成定、貞享元年(一六八四年)・同二年・同四年には孫の喜右衞門定治が盛岡に下向している。

  元禄四年(一六九一年)に幕府からの御馬買衆下向は停止となったが、その後も引き続き、江戸で将軍家の買上馬のこと、および馬喰馬のこと、ならびに江戸での馬市に当たっては常に諏訪部家とのかかわりを無くして成立するものではなかった(『雑書』『御在府留』『我覚集』)。

  そのほか、諏訪部文九郎成定が推挙によって南部家に召し抱えられた諸士には、野辺小右衞門安忠(百五十石目付を勤める)。馬場清宅治久(御医師に召し抱えられ十五人扶持、高九十石)、三浦平右衞門義頭(馬術を以て召し抱えられ地方二百石。宗門奉行を勤める)ほかがいた(『参考諸家系図』)。



本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします