■ 〈たきびの詩人巽聖歌〉211 小川達雄 戦争と歌人・上11
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さていよいよ、巽先生の戦争の歌について、である。先生の戦争に関する最初の作品は、次の歌であった。
日ソ交戦翳(カゲ)のごとくにひずむと
き浜木綿(ハマユウ)の花白しゆふべを
『多磨』昭139
これは九月号の掲載であるから、歌われた日ソ交戦は七月、するとソ・満国境で勃発した張鼓峰事件を指すことになる。
これは当時の満州東南端、ソ連と接する複雑な丘陵地帯で起きた、国境線をめぐっての紛争であるが、当初は外交交渉による解決が命令されていたにも関わらず、例によって現地軍の独断夜襲の決行があり、対するにソ連軍の二度にわたる大逆襲があった。結局はモスクワでの外交交渉によってようやく停戦に至ったが、巽先生の歌は、その間の危惧をうたったものであった。
徐州作戦に続く漢口への進撃を見ていた時期に、新たな戦闘には非常な危険を感じて当然である。浜木綿の花をうたってはいるものの、この歌には巽先生のまっとうな感覚が一本通っていた、と思わないわけにはいかない。
なおこの事件の時、板垣陸相は実力行使の御裁可を得るために参内し、外相も海相も同意していると奏上して、すでに両相からの反対意見をお聞きの天皇からはきびしい叱責を受けたことがあった。首相のとりなしによって、板垣はなんとか職に止まったけれども、この時、板垣が辞職していたら、前々回に記した、八月の母校・仁王小学校訪問などはあるはずもなく、盛岡市民の大歓迎もなかったことになる。この時の板垣の失態は、わたしは最初『新版米内光政』(実松譲)で知ったが、この張鼓峰事件に関して、これはすでに常識的な話になってしまった。
さて巽先生の続く戦争の歌は、『多磨』昭和十三年十月号に載った、知人の戦死を哀悼した作品である。
恃みゐしある職工飯塚部隊にありて
戦死す
恃みゐし友なりしかな召され征き一年(
ヒトトセ)生きて死ににたるはや
南京に徐州に攻めて寧日なしと聞きゐし
ものを闘ひ死にぬ
夜がけしてあかとき冷やき草の中に吸ひ
たる煙草うまかりしとふ
燈火管制下
水道橋にて空襲警報鳴り出で通行
禁止さる
河の面にかかりひそけき舟のあり位置さ
だかにて誰か咳(シハブ)く
星の空傾く街の屋根暗くいま全しも空襲
管制
当時の日常生活ということで、続けて置かれた燈火管制の歌二首もあげておいたが、その前に記された三首には、期待していた人の死を、心から悼む思いが流れていた。そうした哀悼の思いは、いつの世でも変わることはない。なによりも巽先生の穏やかな、ナマの気持ちがそのまま伝わってくるように思う。
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