石川啄木が死んだのが明治45年4月13日、わずか26歳の短い生涯だった。啄木は明治19年2月生まれだから今年で生誕120年になる。
死を看取(みと)ったのは妻節子と娘と父一禎、若山牧水であった。牧水は後に実にリアルで沈痛な啄木の臨終記を書いている。当日、朝6時ごろ、まだ寝ているところへ節子の使いの車夫が迎えにきた。啄木が危篤だというので駆けつけると「病人は案外に安静であった。何しろ二年ごし病んでゐたので実に見るかげもなく痩(や)せ衰えてゐた。蒼(あお)暗い顔には誠に頬(ほお)骨と深くおちこんだ両眼のみが残ってゐた。安静であったとは云(い)へ、その前々日かに比しては、いかにもその朝は弱ってゐた。細君が石川君の枕もとに口を寄せて大きな声で『若山さんがいらっしゃいましたよ』と幾度も呼んだとき彼は私の顔を見詰めて、かすかに笑った。あとで思へば、それが彼の最後の笑であったのだ。『解(わか)ってゐるよ』といふやうなことを言ひ度かったのだが声を出せなかったのだ」。
それから3、40分もたつと啄木が元気で語るようになる。まず原稿料の礼を一番先に言う。その他さまざま語り出した。そして数分後、啄木の容態が一変する。話しかけていた唇をそのままに、しだいに瞳があやしくなって来た。牧水が慌てて節子夫人を呼ぶ。老父が出て来る。牧水が電報を打ちに郵便局へ走る。帰っても昏睡(こんすい)状態がつづいている。節子夫人たちが口うつしに薬を注ぐやら唇を濡らすやら名を呼ぶ。その場にいない長女を捜しに牧水が外に出る。連れて帰ったときには老父と節子夫人が一緒に啄木を抱きあげて低い声を立てて泣いている。
緊迫した様子が、牧水によってリアルに描かれているのだ。その日の東京は、いやに暖かいぎらぎらするような晴天で、街路には桜の花がふさふさと咲き光っていたという。啄木の臨終は午前9時30分であった。さらに牧水は臨終から通夜にかけて枕元にある真新しい薬の箱にふれている。
「死ぬ前々日に石川君を見舞ふと、彼は常にも増して険しい顔をして私に語った。『若山君、僕はまだ助かる命を金の無いために自らを殺すのだ。見給(たま)へ、其処(そこ)にある薬が二三日来断えているが、この薬を買ふ金さへあったら僕はいまに直ぐ元気を恢復(かいふく)するのだ、現に僕の家には一圓(えん)二十六銭(或いは単に二十六銭であったかとも思ふ)の金しか無い、しかももう何処(どこ)からも入って来る見込みは無くなってゐるのだ』と。その薬の名を訊(たず)ねて私はすぐ付近の薬屋に出かけたが、私の財布の中の金でそれを買ふに足りなかった」。
牧水はその日、啄木から頼まれた歌集原稿を売るために芝に住む土岐善麿を訪ねる。善麿はすぐ日本橋の東雲堂(西村陽吉)に行き、それを20円に換えて啄木に届けたのであった。その金ですぐ買ったと思われる真新しい箱の薬を啄木は1度か2度飲んだだけで死んでいったのだった。
ちなみに出版社に届けられた灰色のノートには「一握の砂以後」の題名が付いていた。善麿らが「悲しい玩具」と命名した。一禎と牧水二人だけの寂しい通夜の様子はまたの機会に書く。
(歌誌編集者) |