2006年 4月 8日 (土) 

       

■ 〈舗石の足音〉106 藤村孝一 牧水の勧めで生まれた歌人

 先日、高橋爾郎さんの「わが歳時記―4月―」を拝読した。高橋さんはわたしも属する県内の短歌誌の先輩でもあり、長くお世話になっている。内面から熱いものが込み上げてくるような、重厚で正統的な短歌の作者である。その作品の一つ「飲食の咽喉は冥し生きてゆく六人の箸静かにそよぐ」を短冊に書いていただき、自室に掲げ、毎日のように眺めている。

  高橋さんは若山牧水にひかれ、現在もその系統の歌誌の主要編集者でいらっしゃる。牧水関係の資料を多くお持ちになっていることも当然だと言えよう。その高橋さんが、岩手の誇るべき歌人石川啄木の臨終の場の牧水について詳しく書いておられるので、今までの月の「歳時記」よりも興味深く読ませていただいた。

  わたし個人として啄木は嫌いでない。明治末期に、平易な口語的短歌、3行書きの短歌を生み出すなどまさに天才のなせる業だと思われる。また、啄木と交友があり、旅と酒に生きたロマン派の歌人若山牧水もすばらしいと思う。

  しかし、現代にあっては啄木や牧水と同じような風物を同じような視点・方法で詠もうとは思わない。現代の新しい詩としての短歌を目指したい。わたしはいかに無名であっても、「他人と違うもの」でなければ芸術ではなく、傷をなめ合う単なる「仲よしクラブ」の一員でしかなくなると思う。著しい自己主張・個性が求められる。だが、時代が進むにつれ、優れた歌人が多く出てくるものだからますます短歌を一首でもつくることは難しくなってきているとは思う。

  非常に視野の狭いわたしだが、短歌史上でひかれる歌人は40年前も今も齋藤史1人である。まさに現代歌人であり、言葉の錬金術師であった。「埴輪の眼ふたつ穴なしてわらへども母の見えざる眼は笑はざり」「深くしづかに潜行しつつ老はすすむ 日本をまたぐミサイルの下」など、言葉の陰の深い意味を引き出した多くの作品を残して、平成14年がんのため93歳で他界した。この齋藤史に短歌の道を歩むように勧めたのが、若き日に啄木の死をみとった牧水だったのである。

  大正15年の秋、史は職業軍人であり歌人である父親瀏、母キクとともに北海道の旭川市に住んでいた。史17歳。そこへ牧水から手紙が届いた。「歌誌『創作』発行その他の借金を返すために揮毫(きごう)の旅行をするので、よろしく頼む」というものであった。講演会、歌会を終えた後牧水は齋藤家に泊まった。

  翌朝、父と史、牧水、喜志子夫人は散歩に出掛けた。その道の途中で牧水が史に「史子さん、歌をずっとやるつもりはないんですか。−それはいかん。あなたが歌をやらないというのはいかんな」と言ったという。

  このときのことについて齋藤史は文集「遠景近景」の中で「今になって思うのである。あの言葉がなかったら、短歌を書いてきたかどうか−と」と述べている。歌人であった父瀏は娘史に短歌をつくることを勧めなかったというから、このときの牧水の言葉の影響が大きいのであろう。

  人と人のつながりは面白いものだ。


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