ゲンは教会にとって無くてはならない人であった。幼稚園や小学校の運営、矯風運動、基督教婦人会活動、そして教会全般の運営等ゲンのリーダーシップと行動力が必要とされたのである。ちなみに次の金沢敬次郎牧師の時代も、引き続き教会の「執事」を務めた。
金沢牧師は明治41年6月に着任、「困難な時代に純福音の伝道に苦心され(略)あらゆる人に愛をつくし、『旅人をねんごろにもてなし』淋しい青年達のために己が家庭を解放された。」(百年史)人であった。ゲンは牧師夫妻の良き助力者であり、夫人の相談相手でもあった。
ゲンが金沢牧師夫妻と共に、懸命に美以教会を支えていたころ、日本人はカナダBC州全域に進出していた。
「当時の日系人の散布状態及び教区を見ると、一九一〇年(明治四十三年年)頃には、すでに、カナダ在留同胞は約二万人であった。バンクーバーを中心として、近くは数哩より数十哩、更に遠くの地に散らばっていた。北方はオーシャン・フォールズ、スワンソンべーよりスキーナ漁場に、バンクーバー島はビクトリヤよりチマイナス、ナナイモ、カンバランドに、南方はフレーザー河の南岸ホワイトロック、ラングレープレーリーを経てチルワキに、北岸はステブストン、ニューウエストミンスター、ポート・ムデー、メープルリッジ、ミッション等に広がり、漁業、農業に従事し、鉱山、製材工場、鉄道会社、山林会社その他に就働していた。」(ママ、以上百年史)。
ゲンの行動範囲はバンクーバーを中心に北はオーシャン・フォールズ、南は米加国境およびシアトル、東はロッキー山ろく、西はバンクーバー島のカンバーランドに及んだ。たいていは、漁場周辺の日系人集落や鉱山、鉄道工事の邦人「飯場」を訪ね、醜業婦や夫に捨てられた女性の救済に当たった。荒くれ男の支配する飯場に乗り込むゲンは、人の道を説き、禁酒を促し、女性の解放を訴えたのである。
ゲンの献身的な活動は、日系一世、二世の間に、伝説の女性風に語り継がれてきた。ある古老は「永峰」と記憶し、出身地も「青森か盛岡」だったらしい、と語る。
ゲンは救済した女性に裁縫を教え自立を促した。自立した女性には結婚を仲介した。
スティブストンのある老女は「私の母はバンクーバーの教会の方に裁縫と英語を教わり、結婚するときもお世話になったと聞く。吉田慎也さんと同郷の方だったそうだ。私は慎也さんにお世話になった」と追想する。
「教会の方」とは間違いなくゲンであろう。「吉田慎也(水沢出身)と同郷」の女性はゲン以外は考えられない。
以上のバンクーバー日系社会の語り伝えは、1991年から96年にかけて筆者が取材したものである。
語り伝えは、ゲンは「メソヂスト教会に籍を置いて、公共的事業には常に献身的の尽力をした、日常裁縫業を営んで、自己生計の資を求め、社交に入っては風教改善を主として努力した」(ママ)と大鑑附に記録されていることを裏付けている。
「公共的事業」とは、現今の公共事業とは異なって、教会の社会奉仕活動とそれに伴う事業全般を「公共的事業」と称していたようである。次に「社交に入って」は、単なる人々とのつき合いの意味を越え、教会の外の社会活動に携わることを指していた。「風教改善」は、醜業の廃止や醜業婦の救済運動にとどまらず、日系人社会にはびこる、飲み、打つ、買うの三大悪の根絶と、日系人全体の地位向上を意図した運動であった。
ゲンは、初代鏑木五郎牧師、第二代小野善太郎師、第三代金沢敬次郎師を助け、約13年に渡って日本人メソジスト教会の発展に尽くしたのである。
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