小説『雲は天才である』を読むと、校歌をめぐって校長との対立があり、生徒たちを扇動してストライキをしたということが書かれています。事実、啄木は高等科の生徒たちを引率して、村の南端にある平田野におもむき、校長排斥のストライキをぶったため、村中で大騒ぎとなり、校長は転任、自らは免職処分となっています。
こうした伝記的事実や小説から推して、啄木が村人(父の再住職に反対する人々、校長など)に反感をもち、これに対立して立ち上がったことは確かでしょう。そこには村社会、学校という無気力な管理社会(『雲は天才である』によれば)に対する若々しい抵抗、正義感という面は含まれてはいましたが、無謀な、計画性のない行為でもありました。後になって啄木は汝が痩せしからだはすべて/謀反気のかたまりなりと/いはれてしことと自らを内省するようになりましたが、渋民小学校代用教員時代は、まだまだ若かったようです。
一家をあげて渋民村を去った啄木は、その後、北海道各地―函館・札幌・小樽・釧路と漂泊すること約一年、その揚げ句、「何としても文学者として生きたい」と悲愴な決意を抱きつつ東京に出ます。その時、函館から横浜まで船−「三河丸」を利用しました。
上京にあたって海路を選んだのは、故郷を横切ることはとうてい堪えられないからだ、と書いています。渋民は啄木の心の深いトラウマでした。別れた女の顔など見たくもない、というふうに、故郷を遠ざけたのです。
しかし東京で小説家として経済的に自立する夢も破れ、みじめな借金暮らし、貧困にあえぐ生活の中で浮かびあがってきたのは、抑えようとして抑えきれぬ故郷の山や川であり、貧しい村人の一人一人、そして自由奔放に、わがままな青春を謳歌できた盛岡中学時代、幸福な幼少年期でした。こうして目に浮かぶ渋民・盛岡の風景や人々が、今なつかしくも温かいものとして傷ついた、すさんだ啄木の心を慰めてくれました。
今日もまた胸に痛みあり。/死ぬならば/ふるさとに行きて死なんと思ふ。(『悲しき 玩具』)
啄木は本当に盛岡に、渋民に帰りたかったのだと思います。そこにしか自分の落ち着ける場はないと気づき始めていたのです。
『故郷に入る』という未完の小説は、そうした夢を語っています。その中で主人公は、自分はどうふるまっても明るい関西人、東京人になれない人間であり、濁音の多い、暗い、日本の「裏玄関」である上野から出入りするしかない「東北人」だということを悟った、と書いています。そして盛岡まで来て、明日はいよいよ村に入る、というところで小説は未完のまま終わっています。
啄木は結局、夢の中、小説の中でさえ、渋民村に帰郷することはできなかったのです。屈折した思いは容易には解けず、どう故郷と和解を遂げてよいかわからなかったこと、それがこの小説が未完で終わっている理由だと思います。
それにしても、啄木の二十六年の人生の変転のきわまりなさ、一家をかかえての安らぐことを知らぬ漂泊の人生。なればこそ、心安らげる故郷、「人生の港」が尊いものになっていったと思います。
言葉を変えていえば、啄木はその放浪、漂泊の人生を通して、故郷を発見し、故郷を慕い、恋し続けたのです。今、函館の立待岬に眠る啄木一族の墓、そこに打ち寄せる波は私には、故郷を求めて永遠に泣き続ける啄木の切ない、しのび泣きの声とも聞こえるのです。
(岩手医大教養部教授)
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