■ 〈たきびの詩人巽聖歌〉228 小川達雄 戦争と歌人・下10
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さて昭和十七年六月のミッドウェー海戦を境いとして、日本には翌年二月のガダルカナル島撤退、四月の山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、五月のアッツ島守備隊二千三百名の玉砕、と悲報がしきりに続く。
巽先生は、戦勢の曲がり角となった六月の『短歌研究』に、いまは亡き母を偲んだ作品を出詠していた。
母の声
向うには一木若葉の明るきを夕べの瀬音
谷に罩(コ)めつつ
若葉山ふかきはときに風をまじへこころ
にひびく母のこゑごゑ
凪(ナ)ぎはてて通ふ風だに光るなしレ
モンいろなる明け方の空
この前に置かれたのは、山口茂吉「海軍記念日近し」という作品で、すぐ後は窪田章一郎「コレヒドール島陥落す」である。いずれも戦争の歌ばかりであった雑誌の中で、巽先生の母を思う歌だけが、心に沁みる哀しみを湛えていた。
先生はこれに「小川未明先生還暦」の歌を添えていたから、先生は世の中の大勢などではなく、自分自身の心にしっくりとうなずかされる事柄とか、にごりのない思いだけを作品にしていたわけである。
それからしばらく後の十一月二日、巽先生が最も恐れていたことがやって来た。それは、北原白秋の死、である。
白秋は十月初め、脚気や腎臓からくる浮腫がいよいよひどくなり、呼吸困難を来すため仰臥とか側臥位になることもできず、ようやく後ろにもたれかかっている状態であった。以下、最後を看取った米川稔医師(弟子)の手記によれば
「苦痛が極限に達した時は、先生は膏汗
を流しながらも、
『何、負けるものか、負けないぞ』とお
叫びになる。
『兄さん、頑張れ』『お父さん、しっか
り』 声援も亦悲壮を極めた。
『篁子、なぜ泣くか。莫迦。お父さんは
死にはせん。泣くな─家子、心配せんで
いいよ』
抑揚のない先生の低いお声が、それから
しばらく絶えては続く。」
米川はこの時のことを、昭和十八年一月の『多磨』に、こう残している。
はげしく息あへぐひまもたまきはる命ほ
がらにものぞいひ給ふ
巽先生は、その年六月の追悼号に、次のように記していた。
「〜薪雑棒で打据ゑられても、これほど
打ちのめされ、ひしがれた思ひをするこ
とはないのである。立ち上がれさうもな
いのが現状である。〜すべては夢になつ
てしまつた。思へばたゞひとこと、たゞ
その一言、巨匠・白秋の言が聞きたくて
すがりにすがりついてきた今までの生で
はなかつたか。(愚按愚記)」
ほんとうに、先生はひどい打撃を受けたのであった。このあと、『多磨』に先生の作品は一回しか載っていない。ただ、標題に従って、もう少し続けることになるが。
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