2006年 5月 5日 (金) 

       

■  〈In Region〉料理店は土地の文化度示す 日本料理田中経営の田中紀雄さん(65)

     
  「雑誌記者も料理店経営もやることは同じ。記者時代の経験がすべて生きた」と話す田中紀雄さん  
  「雑誌記者も料理店経営もやることは同じ。記者時代の経験がすべて生きた」と話す田中紀雄さん  
  白磁に千羽鶴をあしらった、ひょうたん型の徳利。中の酒を注ぐと「トクトクトク…」と何とも風流な音がする。「日本料理は五感で楽しむもの。料亭がなくなったら、どうやってこういう文化を伝えていくんだろうね」−。日本料理「田中」=盛岡市志家町=代表取締役社長の田中紀雄さん(65)。全国料理業生活衛生同業組合連合会副会長、同組合県理事長の肩書きを持つ業界の重鎮だ。長年、日本料理文化の継承と発展に貢献した功績が認められ、この春、藍綬褒章を受章した。「料理店は地域文化のバロメーター」と言う。目の肥えた同じ客が各地の名店を歩く。料理、掛け軸、生け花、給仕の所作に至るまで評価は厳しい。一晩のもてなしで、その土地の文化度が測られてしまう。

 大学卒業後、東京の大手出版社に勤務。主に女性雑誌を担当した。姉3人の下で育ったせいか女性の好みが読める。次々と企画をヒットさせ「20年に一人の逸材」と言われた。 仕事柄、各界の第一人者との交流もはぐくんだ。「担当していた井上ひさしの原稿を編集長がめちゃくちゃに削ってね。その数日後ですよ、直木賞が決まったのは…」。社内での意見の違いから一大決心し32歳で帰郷。母親と姉たちが切り盛りしていた料理屋の経営に加わった。

  出版社を辞める時「何の仕事でもいい。どこに住んでもいい。でも一流の仕事をしよう」と仲間と誓った。それなら「母親を県内一、東北一の料理屋の女将(おかみ)にしなければ」と頑張った。

  1974年に開店した現在の店は数寄屋造りの巨匠・平田雅哉の設計。厨房の指導は記者時代からつきあいのあった日本料理界の大御所・志の島忠が引き受けた。どこに出しても恥ずかしくない食材、器を全国から探し求め、そのための投資も惜しまなかった。料理、着物、旅−。雑誌づくりで磨いた知識と経験がすべて生きた。「みんなの夢を乗せた船出。30代、40代は今、考えてもわくわくする」。

  県内の料理店の二代目、三代目の若手経営者の集まり「芽生会」でリーダー的な存在になり、やがて組合の要職に。92年5月の第80回全国料理業岩手大会では実行委員長を務めた。

  芸妓(げいぎ)による邦舞・邦楽の伝承活動調査、料理店での接遇の基本マナーをマニュアル化した心得帳の作成、企業秘書を対象にした料理店利用ニーズアンケート−。その後も斬新なアイデアを打ち出し業界を引っ張った。

  「よいものを見つけるとわたしはみんなに教えます。その代わりみんなにも教えてもらう。ちょっと手を抜いているな、おかしいなと思ったらそれは違うんじゃないかと意見する。よい店、よい物はみんなで支え、育てなくちゃいけない」。

  母親のミホさんは88年に、そのあとを継いだ長姉の岡田孜子さんも昨年亡くなった。現在は三番目の姉の宏子さんが女将だ。

  かつては毎夜、黒塗りの車が「田中」の周りを埋めた。だが今は違う。仙台と盛岡の駅ビルに大衆向けに出店した「ひっつみ庵」のほうが正直、業績はよい。「伝統は変わらないというけれど変わるんです。時代が変わった」と話す。

  この春、長男が妻子を連れて料理修業に旅立った。「きっと別の世界をつくってくれるでしょう」。新しいライフスタイルに合った料理店が生まれることを期待している。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします