■ 〈古文書を旅する〉113 工藤利悦 信直、夫人を7年間人質に差し出す
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■証人番之事
一、寛永十六卯年(一六四一年)諸家証人御番仰せ付けられ、親族の家来一人ずつ、在府つかまつりなし候様に仰せ出され、八戸弥六郎・中野伊織・北九兵衛、この三人順番にて江戸へ相詰めなし、参府御礼、太刀馬代を献上す。
一、奥南盛風記に言う、寛永十六年将軍家の鈞命(将軍の命令)によって諸家証人番を差し出さる。嫡子あるいは二男、あるいは主立つ家族を一カ年あるいは二三年在府なり、参府の節は将軍家へ御礼つかまつり、扶持米を下さる。南部の証人番は八戸弥六郎・中野伊織・北主馬なり。この三家代わる代わる相詰める。
しかるところ、弥六郎当番に娘の宮を差し出す。女なれば御礼なし。御礼なければ扶持米を下されず。この事例となり男子の節も扶持米を下されず。その後寛文五年(一六六五年)中野吉兵衛が当番なりけるが、証人番諸家共に相止む。
奥方定府(じょうふ)たるべき由の命令ありける。ここに記す所の証人番はすべて二十二の巻に記す所の証人番と大に異なり、照し見べし。
一、盛風記に言う。証人番の事、以前利直公の御母君慈照院殿、伏見に七カ年詰めたまいし事あり。按ずるに、この事秀吉公の節の事にて二十二の巻に記す所なり。
一、万治二亥年(一六五九)登 北九兵衛宣継(江戸前髪を取る。中館勘兵衛常満これを勤める)。同三年正月御礼、時服拝領物。
一、同三子年登 八戸三五郎義長。寛文元丑年(一六六一年)正月御礼拝領物前の通。
一、寛文元丑年登 中野吉兵衛元康。同二年正月御礼拝領物前の通。
一、同二寅年登 北彦八郎愛時(ママ) 同年病気にて下る。
一、同三卯年二月登 八戸三五郎義長 同四年拝領物前の通、寛文五巳年諸家共に証人番御免、八之巻に記す之、天正年中太閤秀吉公之節、証人番二十二巻に記す之
一之巻
■ 二十二之巻の記事(参考)
天正年中太閤秀吉公へ証人となし、利直公御母堂慈照院殿、たびたび伏見へ御登りなり、その後(慈照院殿におかれては)寛永十七年(一六四二年)庚辰九月九日に御卒去。八戸弾正政長(直義または直栄か)の娘にて信直公御孫女、清心院殿が御登り、正保元年(一六四四年)六月四日に卒去の後、証人御番八戸弥六郎、同二年東都(江戸のこと)に登り、御暇の節時服を拝領なり。同三年重直公御参府、同四年中野吉兵衛元保登る、慶安元年(一六四八年)(重直公)御参府、同二年北九兵衛登る、いずれも一年置きなり。
寛文五年まで証人に添え病気の節は名代に登る人々には、八戸三五郎義長、北左衛門直愛、毛馬内靱負則氏、中野伊織直保也。同五乙巳年、諸家共に証人御番御免、諸侯の奥方本国へ下るまじき旨仰せ渡さる。(「篤焉家訓」)
【解説】
証人番の証人とは人質。番は代わる代わる交代すること。江戸時代証人番に関する概要である。
盛風記に言うとして「利直公の御母君慈照院殿云々」と見える慈照院殿は信直の夫人泉山氏。三戸三光寺境内に信直の墓と並ぶ二基のうち一基が慈照院殿の墓碑である。
南部氏は豊臣秀吉のために二心の無いことを誓い、慈照院殿を七年間にわたり人質として京伏見に詰めさせたという伝。参考のために掲載した二十二之巻には、「度々」とあり、通年連続ではなかったとする説のあることも知られる。
徳川家に対する証人のはじまりは加賀金澤城主前田利長の母、芳春院とその家老等(『徳川実紀』)と伝える。慶長二年(一五九七年)に秀吉が死去。相次いで前田利家も死去して天下の形勢は徳川家康へ移りつつある中、利家の子利長に謀叛の動きがありと噂が流れた。利長はこれを嫌ってすぐさま江戸に人質を差し出したのが嚆矢(こうし)とされている。
その後、前田氏の例にならい諸大名は江戸に妻子を住まわせるようになった。仙台の伊達家は同七年(『貞山公治家記録』)、鹿児島の嶋津家は同十年(『薩藩旧記後編』)と伝え、南部家は同七年に江戸屋敷を構えた(『増補国統年表』)という。
重直は同十一年に江戸で生まれている。二十二之巻の記録によれば、慈照院殿は「寛永十七年庚辰九月九日に御卒去」とある。徳川家に対しても証人を務め、江戸に住居したように読める。
一方、『祐清私記』(江戸留守居役之事)によれば、「御当家の江戸御留主居職は他家に勝る格式」とし、「右の由来は往昔、重直様の御代まで御留主居あるいは證人などと号し、御家老石井伊賀守様この職を兼て相動められ候、その後、御家門七戸隼人正殿など家老職にはこれ無く候得共、御證人御留主居として相動められ候」とある。
『徳川実紀』には慶長十四年(一六〇九年)九月に酒井忠利が大留主居となり諸家の証人を預り、国々の関所を掌ると見え、『寛政重修諸家譜』には、その二男酒井忠吉の譜に「寛永十一年(一六三四年)二月御留守の事を司り、関所及び諸家の人質を奉行し、御旗本の士八十餘騎を隊下に属せられ、与力十騎、同心五十人を預けらるとある。ここに見える証人番について、『徳川実紀』での初見は寛永十三年(一六三六年)十二月二十一日条の「森内記長継(美作津山・一八万六千石)家の例と知られる。
南部家の場合、同十六年に八戸弥六郎の娘(信直の孫女)が務めたのがはじまりと云われる(『書留』)が、それは石井伊賀守・七戸隼人正等の伝があり、慈照院殿の後の伝が失われたための誤解ではなかろうか。
証人は江戸城内の証人屋敷に住み、証人奉行の管理下にあった(『国史大辞典』)。その後、本文にも散見する、証人の条件および、身上書の提出が正保四年(一六四七年)に証人奉行から諸大名通達(『徳川十五代史』)され、仙台藩では直ぐさま提出している。
南部家に残る記録では、慶安五年(一六五二)辰正月二十三日付のものが見える。「二万二千五百石八戸弥六郎 五十九(歳)、実子同三五郡 二十(歳)子、三千石中野吉兵衛 四十七(歳)、実子同伊繊 二十四(歳)丑、二千石 北九兵衛 三十七(歳)寅 右帳面の通り証人代りの義、今度懈怠なく堅く申付けらるべく者なり」(『内史略』)。
この記録にあて先は見えないが、仙台伊達家の記録には留守居・大番頭・勘定頭連名あてである。実は、証人を差し出した大名の実態は 尾張・紀伊・水戸の御三家も含まれて三十六家のみ。一握りの大名であったことが鳥取藩の『諸国謹人割之帳』によって知ることが出来る。
理由など詳細は未詳である。うち一年交替の勤番を履行した家は、南部家(三人を届け出で一人宛)をはじめ二十七頭。ただし、加賀金沢の前田家(一一九万石)では 九人を届け出で、うち三人ずつで勤番。常陸水戸徳川家(二八万石)は六人を届け出で、うち二人ずつ。 出羽久保田佐竹家(二〇万石)は 九人でうち三人ずつなど。
二年交替で勤めた家は 安芸広島の浅野家(四二万石)をはじめ五頭。浅野家は 二人を届けてうち一人ずつ。 肥後熊本細川家(五四万石)は 五人でうち二人ずつなど。その他詳細不明の家が四頭ある。
さて、本文に立ち入ってみる。『奥南盛風記』に見える北主馬は北九兵衛宣継の初名。更に中館勘兵衛常満が北九兵衛の代理を勤める事は身上書提出の経緯からして疑問が残る。一緒に詰めたという事であろうか。八戸弥六郎(直義)と八戸三五郎義長とは親子。慶安四年(一六五一年)から父に代わり部屋住で務めた。なお二十二之巻によれば、藩主参勤の年には証人番は無かったかの記述も誤伝。
また、名代に登る人々には「八戸三五郎義長、北左衛門直愛、毛馬内靱負則氏、中野伊織直保也」とあるが、八戸三五郎義長は八戸弥六郎の代理ながら、北左衛門直愛、毛馬内靱負則氏の氏名は見えない。毛馬内靱負が勤番中に病死し伝もあるが、江戸での死去が誤解を招いているらしい。留守居奥瀬氏の日記によって傍証される。なぜ多くの誤伝が生じたか、原因は定かではない。
証人番の制度は寛文五年(一六六五年)に中野伊織直保の勤番を最後とし、家康没後五十年を経過した事を契機に、殉死の制禁の発令とともに廃止された。しかし、妻子の江戸定住は幕末の文久二年(一八六二年)まで継続された。
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