2006年 5月10日 (水) 

       

■  北の前衛逝く 盛岡市在住の美術家、村上善男さんが死去 

     
  作品「蛾」  
 
作品「蛾」
 
  盛岡市在住の美術家、村上善男さんが4日、逝去した。73歳。火葬と葬儀は9日、近親者だけで行った。お別れ会(発起人代表は小田原光晴さん)は21日の午後1時から、同市愛宕町の盛岡平安閣で開く。村上さんは1933年、盛岡市の染色業の家に生まれた。岩手大学在学中の53年、二科展に出展した「蛾」が初入選。55年の同展出品作「ヴァグースQ」が岡本太郎の目に留まり、同年に新たに設けられた二科第九室「太郎部屋」入りを果たした。ここから岡本との交流が始まった。68年に仙台市、82年弘前市に転居。2004年から盛岡市に戻り、花巻市にアトリエを構えて制作を続けていた。

 盛岡市在住の美術家、大宮政郎さん(75)は村上さんとは55年の付き合い。60年代には2人が中心となって、盛岡を拠点に現代美術の新しい動きを生み出した美術団体「N39」を創設。その後、村上さんが各地に居を移しても親交を続けてきた。大宮さんは訃報に驚きながら、現代美術の最前線を駆け抜けた当時を振り返った。
 
2人の交流は村上さんの二科展初入選のころから。東京で前衛的な美術運動が盛んだった60年代、その刺激を受けた2人が「おれらもやろう」と結成したのが「N39」だった。北からの発信というよりは「自分たちで騒ぎたかった」と大宮さん。村上さんは宣伝、大宮さんは事務とそれぞれの得意な分野を生かして担当を分けた。

  「彼は火を付けて歩くのが好きな人だった」という大宮さん。村上さんは転居する先々でグループ運動に取り組んだ。沼宮内に転居したときは大宮さんに電話で「現地の美術界で有名な人を紹介してくれ」と依頼。大宮さんが紹介した斎藤忠誠氏ら岩手町周辺の美術家で「エコール・ド・エヌ」を立ち上げた。

  村上さんは父親が津軽の出身。弘前大学での仕事が決まったとき、父親が涙を流して喜んだというエピソードを教えてくれた。「おれも親孝行ができた」という村上さんの言葉を印象深く思い出す。

  大宮さんは村上さんの仕事について「功罪相反するものもあるが誰もが認めるいい仕事をした」と思う。

  「彼の基本姿勢は記号派」と大宮さん。「数字や気象図も記号。古い文字も読ませるためではなく、漢字という記号を使った。その時代、時代に自分なりに記号を見付け出して絵づくりをした。染め屋で育ったので記号を散りばめた作り方は『型染め』にも通じるのでは。そういう目で見ると彼の作品がよく見えてくると思う」と話していた。
 
 

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします