2006年 5月21日 (日) 

       

■  〈盛岡百景〉65 開運橋からの岸辺の緑と岩手山

     
  五月晴れの朝、開運橋から眺める北上川と岩手山  
 
五月晴れの朝、開運橋から眺める北上川と岩手山
 
  いつのころ、誰が言い始めたのか不明だが、開運橋には「二度泣き橋」という異名がある。盛岡駅ができた明治時代。盛岡の政治経済の中心は旧盛岡城から広がる旧城下町だった。内丸や河南地区といった辺りだ。当時の鉄道敷設のご多分にもれず、盛岡も市街地から離れた場所に駅が設けられた。

  盛岡駅開業からも長い間、街の重心は動かず、駅と中心街には、これが県庁所在地かと目を疑うような風景が広がっていたのだろう。駅前地区の北上川には上流の旭橋も2006年に開通したばかりの下流の不来方橋もなく、東北新幹線も開通する以前、盛岡駅に降り立って中心部に向かう際、必ずと言っていいほど開運橋を渡ったはずだ。

  転勤シーズンの3〜4月初め、盛岡はまだ春と呼べない時期。首都圏などから転勤してきた人が、盛岡駅を降りて間もなく見る風景に「左遷」という思いも浮かび上がらせながら、泣くのが1度目。盛岡での生活を経て盛岡を離れる段になって、その間に触れた盛岡の人情に、惜別の思いから泣くのが2度目ということだ。

  盛岡に転入して来た人の中には寒い雪の日だった人もいることだろう。しかし、すぐに1度、来てよかったと橋の上で笑えるときが来る。桜の季節も終わり暮らしが落ち着いたころ、五月晴れの日に開運橋の上に立てば、ほおを緩め笑みを浮かべるのではないか。

  北上川の水がゆったりと流れてくる延長線上に残雪もまぶしい岩手山がどっしりと構える。川沿いにビルが増えて視界がかつてより狭まったが、岩手山は存在感を示している。幸い、開運橋と旭橋の間は、駅側に木伏(きっぷし)緑地、大通側には新築地花壇が整備され都市化の圧迫感を緩衝している。

  開運橋の初代は1890(明治23)年の架橋。洪水での流出を経験し、今の橋は架け替えで1953年に開通した5代目となる。トラスの橋が時代とともに消えていく中、ランガートラス構造の開運橋は市内でも個性の際立った現役橋と言えよう。

  世界の情報が生で飛び込み、首都圏との往復が日帰りで可能になった今日でも、はたして転勤族は「2度泣き橋」を体感しているかどうか分からない。しかし、人々に開運をもたらし、少なくとも旅立ちのときに泣きたくなるような盛岡の街や人であってほしいものだ。

  (井上忠晴記者)

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