■ 〈あのころぼくはバンドマンだった〉1 北島貞紀 いつもそばに音楽があった
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2005年の秋、僕のピアノトリオによるCDが完成した。全曲僕の作曲で、自費制作したこのアルバムは、多少の評価を得た。それは、20年前ピアノの蓋(ふた)を閉じ音楽の世界から身を引いた僕のやり残した仕事だった。
大阪万博の翌年、1971年の春に僕は、大阪に行った。東京の大学入試に落ち、いわば都落ちの大学生活を送るためだった。岩手の田舎者にとって大阪はまるで異国のようだった。
そこで15年を過ごし、触ったこともないピアノで飯を食うなどということは夢想だにしなかった。「バンドマン」それが、僕の生業(なりわい)になった。
バンドマン−−ミュージシャンやアーチストとは違う、それより何ランクか下がるこの呼び名をどう定義づけるのか正式にはわからない。ミュージシャンがその音楽性や技術の高さで人に感動を与える職業とすれば、バンドマンは市井の音楽の職人といえるだろうか。
バブル崩壊のはるか昔、高度成長期と呼ばれた時代に生まれたキャバレーやダンスホールなどの娯楽施設は次第に衰え姿を消してゆく。それに伴いハコ(店)を失ったバンドマンも棲息(せいそく)できなくなってゆく。そして、バンドマンは死語になった。
しかし、あのころ流行(はや)った歌謡曲やフォークソングが、時代を彷彿(ほうふつ)とさせるように、僕の中で「バンドマン」は、あの時代の証人であり、僕の青春のアリバイとなって生き続けている。
第1話 バンドの誕生
1973年4月、僕は再びK大学のキャンパスにいた。2年前、岩手から東京を通り越して大阪に来て、あのねちっこい関西弁にやっとなれたころ、喀血(かっけつ)して結核と診断された。そのまま兵庫県加古川に入院、「昔なら、助からんよ」といわれながら、退屈な日々を送った。その後郷里の病院で療養を経て1年半ぶりの復学だった。
吹田市千里山にあるK大は、梅田(大阪)から、阪急北千里線各駅停車で約30分「K大前」下車、そこから正門まで5分、正門から左に折れて上り坂5分で、法・文学部校舎にたどり着く。「英71−42」が僕の学籍簿、英文科1971年入学42番という訳だ。
英文科を選んだのは、消去法だった。好きじゃない学科を消していって残ったのが英文科。モラトリアム(猶予期間)を得るためではではなく、自分が何をしたいのかわからなかったから大学に逃げ込んだ。将来設計や就きたい職業は全くうかばず、不遜(ふそん)にも「何らかの表現者」になるだろうと漠然と感じていた。
入学当初、大学構内には知人は皆無で、2万人もいるマンモス大学で僕は孤独だった。
高校のときから引きずっていた「無常観」を克服するために、あるいは逃避するために小説もどきを書いた。その小説を印刷するため、輪転機(コピー機はまだない時代)を持っている唯一の同好会「マンドウ(漫画同好会)」に籍を置いた。
1年半ぶりのキャンパス生活の始まりは快適とはいえなかった。クラスに行っても知り合いはおらず、2年遅れの1回生は疎外感を味わっていた。唯一居心地よくすごせるのは「マンドウ」だった。ここだけは僕の存在が認知されていて、1年半のブランクがなかった。
マンドウではスターが生まれつつあった。4コマ漫画で注目を浴び始めた石井ひさいち(後の大ヒット「がんばれ、タブチ君」や「おじゃまんが山田君」の作者)が、創刊されたばかりの「月間アルバイト情報」に連載された。僕らは彼の単行本を喫茶店などに売り歩いた。僕は漫画を描かない(描けない)唯一の会員だった。
「おたく、バンドやらん?」ハルが唐突に言った。5月の連休明けのマンドウの部室は、少し汗ばむくらいに暑い。痩(や)せてぼさぼさの長い髪に大きな黒縁めがねをかけたハルとは、最近顔見知りになったばかりだ。僕はハルのその黒縁めがねをまじまじと見つめた。
ハルは、大阪芸大美術科のマー坊やその他何人かを集めてきた。とにかくロックバンドが誕生した。ハルとマー坊がギター、ドラムとボーカルがいて、僕は空いているポジションのベース担当となった。ロックバンドもベースを持つのも初めてだった。
(ミュージシャン・株式会社ショップボックス代表)
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