■ 〈古文書を旅する〉117 工藤利悦 80歳を超す長命の者の名を報告せよ
|
■ 行信公御代、長命の者御書き上げ
一、御領分中、貴賤に寄らず八十歳以上の者を改め書き上げ候様仰せ出され、この節江戸勤番御家老漆戸甚左衛門茂慶より申し来る。宗門奉行穴沢宇右衛門・向井定右衛門へ仰せ付けられ相改め、元禄十丁丑年九月左の通り江戸へ仰せ遣わさる。
一、七百八十人の内 男三百九十四人 女三百八十六人、右の内百歳以上の者三人、百三歳女(文禄四=一五九五=乙未生)、百十歳女(天正十六=一五八八=戊子生)、百十二歳男(天正十四=一五八六=丙戌生)、右之通御書き上げ成さる。ただし、右御書き上げを御隠居重信公へ進ぜられ、御目に懸けられ候由。(「篤焉家訓」)
【解説】
本文は『雑書』元禄十(一六九七)年九月七日の条に同文が見える。幕府が命令して諸藩に八十歳以上の者を書き上げさせた。『御家被仰出』にはこの日右回答書を盛岡より江戸に送るとある。
総体で七百八十人。うち百歳以上三人と認めている。ただし本文に散見する「百十歳女」は、『雑書』のほか『御家被仰出』『盛藩年表』には百十一歳とあり。『増補国統年表』は百十四歳とある。
『雑書』の記述が正しいとすると、天正十五年生まれになる。「百十二歳男」については『雑書』『盛藩年表』『増補国統年表』などにはいずれも「女」とある。本文に附されているかっこ内の記述は、元禄十年から逆算で算出した対象者の誕生年。『篤焉家訓』編者のオリジナル。西暦は解説者の補記である。
■ 幕府の人口統計
幕府が定期的に人口調査を「子・午年」(六年目ごと)に実施すると全国に令したのは享保十一(一七二六)年二月のこと。弘化三(一八四六)年まで連続実施された(『吹塵録』)という。盛岡藩における享保十一年の『雑書』が散逸して状況は不明であるが、六年後の同十一年については七月二十七日に回答している(『雑書』)。
■ 盛岡藩の人口統計
一方、盛岡藩の人口を捉える調査は家老席の雑書『雑書』の承応二(一六五三)年に初見。次いで延宝八(一六八〇)年。総人口、戸数が記載されている。
その後天和元(一六八一)年からは郡別・男女別(以下同じ)のほか職業分類(静態統計)と、出生・死没(自然動態)および転入・転出(社会動態)といった動態統計がまとめられ、天保十一(一八四〇)年まで百六十年間(内四十九年分欠落)分が伝存している。
ちなみに本文に見る元禄十(一六九七)年分は欠落しているが、同十一年の数字から逆算すると、全人口(士分は含まれていない)三十三万四千六百九十五人、うち男十八万五千二百五十七人、女十四万九千四百三十八人。この中に八十歳以上の人が七百八十人。うち男三百九十四人、女三百八十六人がいたということである。
■ 村方の集計 後年の記録であるが、徳田通太田村(矢巾町)のうち、御蔵入地(藩の直轄地)分について、天保十四年と同十五年の「当宗門相改書上帳」(『秋篠家文書』)がここにある。そのの中から喜伊右衛門家を引き合いにして見る。
まず天保十四年帳には、浄土真宗光圓寺(檀那寺)、喜伊右衛門七十一(歳)、女房まこ六十七、子の金治四十九、女房さい四十四、同(子)喜兵衛四十、女房りこ三十八、孫熊太郎四ツ、松太郎二十四、女房つか二十二、竹松十四、一家しめて十人のうち男六人、女四人とある。次に、天保十五年帳には喜伊右衛門は死去して戸主は代替わりし、金治五十(歳)、女房さい四十五、弟喜兵衛四十一、女房りこ三十九、子熊太郎五ツ、娘をしげ二ツ、松太郎こと(改名して)金助二十五、女房つか二十三、弟竹松こと(改名して)竹蔵十五、母まこ六十八、一家しめて十人のうち男五人、女五人と変動をみる。
一方、村全体の動態統計では「生る者」には藤之丞娘をかよが前年六月に生まれたこと。喜兵衛の娘をしげは前年六月に生まれたこと。(ほか十二人割愛)、などしめて十四人。うち男七人、女七人と記録している。
天保十四年における村全体戸数は三十八軒が四組に組織され、人口は百三十八人。うち男七十八人、女六十人。これが翌十五年には戸数は三十五軒と三軒減少。人口は百四十一人とあり三人増加(女が三人増加)していることが知られる。
その詳細を見ると、「来る者」は該当者なし。「去る者」は十三(人名)の娘をりが南伝法寺村庄之助へ嫁ぎ、(ほか二人割愛)、都合三人が転出。「死去の者」は喜伊右衛門が去年九月に死したほか六人(名前略)を数える。
この「当宗門相改書上帳」は、肝入のほか五人組組頭が連書して所管代官宛に提出した控帳であり、年次によっては「当宗門相改下書覚帳」とするものもある。
なお、当村は角屋敷南部領および漆戸氏の給所地が入相知行となっているため、天保十四年帳によれば、同村内であっても「孫助の女房は当村漆戸領の佐治右衛門方より来る」とあり、転出転入の対象者に数えられていることが知られる。
ついでに天保十五年帳により村内の年齢別階層を見る。十歳未満二十七人(男十八人・女九人)、二十歳未満十歳以上十六人(男十三人・女三人)、三十歳未満二十歳以上二十八人(男十三人・女十五人)、四十歳未満三十歳以上二十八人(男十四人・女十四人)、五十歳未満四十歳十四人(男七人・女七人)、六十歳未満五十歳十三人(男五人・女八人)、七十歳未満六十歳十三人(男八人・女五人)、七十歳以上女二人(女二人)と見える。
■ 転入転出の手続き
転入転出の手続きは送籍の書面によって行われていた。文政十三(一八三〇)年に徳田通太田村の左平治の子供伊太郎が盛岡城下青物丁の佐五郎方へ養子として入籍した際の取交状によってうかがい知ることが出来る。(『菅原家文書』)
「送状之事(控)一、徳田通太田村御蔵百姓左平治の子供伊太郎、その御町青物丁の佐五郎方へ養子に参り候間、人元御改め相違ご座無く候はば御返事遣わされべく候、以上、文政十三年寅三月、太田村肝入長右衛門印、青物丁検断平野理平治殿」。
これに対する返書は送返状といい、「その御村左平治子供伊太郎と申す者一人、当御所佐五郎方へ養子に参り候、改め相違ご座無く候返事かくのごとくに候、以上、文政十三年寅三月、御城下青物丁検断平野理平治印、太田村肝入長右衛門殿」の文言で事務処理されている。
いま一例。日詰町へ養女として転出した女性が離縁となり実家に返された事例である。「送状の事、当御町与吉の養女せんと申す者、年三十四歳にまかりなり、子供かのと申す者、年十三歳にまかりなり、相添え離縁いたし、その支配所長右衛門へ送り遣わし申し候、御改め相違ご座なく候はば、送り返し書を遣わされべく候。よって送り状件(くだん)のごとし、天保三年五月、郡山日詰町検断七兵衛、伝法寺通太田村肝入長右衛門殿」。
これらが各村々の肝入や町検断にて集約して「当宗門相改書上帳」が作成され、代官所を経由して宗門奉行の役所まで送付され全領分を取りまとめるものであった。
しかし、それでも統計は不確実とする意見がある。ちなみに宝暦五(一七五五)年の餓死者数について「この時御領分餓死二萬七百八十六人。右は公義へ書き上げの飢人、実は御領分中四五万人程也と」(『飢饉考』)等と乖(かい)離している実態から導かれる意見である。
実は、統計の基準は高百姓が対象。水呑・名子や無宿者等は「帳外者」(ちょっぱづれ者)の言葉もあることからして、それらの人々の数字が顕在化して乖離を招いたものは基準を知らないところからくる誤解であるようだ。
■ 長寿者について
盛岡領内における長寿者をいたわる記録の中から二三紹介する、延宝元(一六七三)年十二月七日に釜石村の与助なる老人は百十四歳で褒賞され、伊東清作祐直は明和六(一七六九)年に八十二歳を祝して鳩杖(現存)が贈られている。
慶長十四(一六〇九)年に中津川に上の橋が完成したときに「三ッ割村左京九十一歳、子孫十二人にて渡る」という渡り初めの記録がある。このほか『参考諸家系図』には何の脈絡もないが、八十歳以上百二十六人の氏名が見え、このうち最長老は戸田正実百十九歳、厨川光勝百十一以下、野田正親・昆忠光・新藤義国九十八歳、佐藤登武九十六歳、畠山好忠・昆光重九十三歳、毛馬内長圃好三・内堀頼式九十一歳、東重義・久慈高光九十歳。(以下割愛)
|
|
|
|
|
|
|