2006年 6月2日 (金) 

       

■  空腹とシラミに耐えた12歳 終戦時の盛岡中学生が外山援農動員の地を再訪

     
  県農業研究センター外山畜産研究室を訪れ、外山援農動員当時の探訪会を開いた昭和20年盛岡中学1年3、4組の同窓生たち  
 
県農業研究センター外山畜産研究室を訪れ、外山援農動員当時の探訪会を開いた昭和20年盛岡中学1年3、4組の同窓生たち
 

 1945年(昭和20年)に盛岡市玉山区薮川の現県農業研究センター畜産研究所外山畜産研究室で開墾作業をした盛岡中学校1年3、4組の学徒隊(外山援農動員)同窓生は1日、探訪会を開いた。当時12、13歳だった一行は61年が経過した現地を訪問。重労働と空腹、過酷な環境下で放牧地を開墾した思い出を懐かしみ、少年時代に戻って旧交を温めた。
 
 同日は伊東圭三郎さん、桑島博前市長、下田一さん、白崎吉一郎さん、千葉正前市議、中野昌造さん、宮健さんら16人が参加。東京や仙台からも駆け付けた。宮さんが80年に「みんなで現地に行きたい」と提案した構想があり、昨年の同窓会で一気に話がまとまった。

  一行はマイクロバスに乗り、目的地に到着。職員の出迎えを受け、当時開墾した耕作地4・5ヘクタールで現在も家畜の飼料となるトウモロコシなどが栽培されていると説明された。

  訪れるのが動員以来という同窓生も多く、当時の思い出と現地の様子を重ね合わせていた。全員で記念撮影し、同日訃報(ふほう)が告げられた3組担任の故石田弘正さん、4組担任で後に岩手大教授になった故百岡胤正さんや亡き学友に黙とうをささげた。

  45年5月21日、盛岡中1年生は滝沢一本木、奥中山、大更、外山に援農動員として同年6月15日まで派遣された。外山へは3、4組の約110人が旧鉄道省山田線に乗って大志田駅まで行き、目指す旧御料牧場の放牧地へ歩いた。

  県立六原青年道場で訓練された食料増産隊(農兵隊)とともに開墾鍬(くわ)を手に耕作。トウモロコシやインゲン、カボチャなどを生産。現在民有地の部分まで開墾した。

  外山での生活は今では想像できない過酷さだった。宿泊は厩舎の屋根裏にある干し草の乾燥場所で、シラミに悩まされた。電気はなく夜はランプをともし、トイレは穴を掘ってむしろで覆った簡素なもの。風呂はドラム缶を使った即席で、入浴は動員中に1回だけだったという。

  食事は1日3度あったが、茶わんに豆たっぷりのご飯とみそ汁。「具が入っていない塩汁で、みんな『太平洋汁』と呼んでいた」と千葉さんは豪快に笑う。下田さんは「ちょうど山菜の時期だったのでウルイなどを入れて食べた」という。

  吉田修さんは「銀シャリ(白米飯)が食べたかった。シラミの数が一番多かった者に大盛りの銀シャリがもらえるシラミ取り大会を先生が開いた。外で全員裸になって一斉にシラミを取った。自分は80匹だったが、確か1位は200〜250匹いた。自宅に戻って服を脱いだら服の襟からかたまりがごっそり落ちてきた。今思っても残念」と懐かしむ。

  中野さんは仲間に配った資料の中で、外山開墾が本県の高冷地農業の礎を築いたと力説する。「楽しかったこと、つらかったことがたくさんあった。この年齢になるまで忘れられない」と話す。









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