もともと、この「『たきび』の詩人」の原稿を書きはじめるについては、終戦後間もなく、児童文化協会事務局に勤務された山崎初枝(旧姓、小笠原)さんにお願いをして、その間の備忘メモを頂戴していた。
終戦直後の巽先生のことは、その頃の盛岡の、それも身近な人のみが知っている。それはこの書き物には欠かされないポイントであるが、そのメモのおかげで、わたしは行く手に、なにか明かりが灯っているように思うことができた。
巽先生との出会いについて、そのメモはこう記している。
「昭和二十年秋、同じ職場だった日詰町
の藤沼隆夫さん(後に『新樹』に入会、
詩で活躍)が私の詩を一篇、先生のとこ
ろに持って行きました。それがいきなり
新岩手日報に掲載され、間もなく私はひ
とりで沼宮内町の先生のお宅を訪ねまし
た。
午前中に東京から帰られる予定がのびて
奥さま(春陽会野村千春女史)が晝食に
ひっつみをごちそうして下さいました。
私は六才位だった長女やよひさんと仲よ
しになりしばらく遊びました。
春陽会の原精一画伯が泊まって居られま
した。
先生は詩作品についてはふれられず、つ
いでがあったら事務所に寄って下さいと
言われました。
事務所は県立図書館の二階にあり、新樹
発刊まで何度かお訪ねしましたが、先生
はお留守がちで、中山佳枝さん、浅沼敏樹
さんが仕事をしていらっしゃいました」
人と人との初めての出会いには、花がひらいてくるような、いうにいわれぬ不思議がある。
その頃、二十そこそこのお嬢さんの山崎さんが、終戦直後の乱雑な汽車に乗って、はるばる沼宮内町まで出かけたこと。さびしい一本道を、先生の家を尋ね尋ね行く心は、明るくふくらんでいたにちがいない。
そのとおり、奥さまとやよひさん、原精一画伯−みな、その場をいろどる精霊たちがいて、山崎さんがやよひさんと遊んだのは、山崎さんもその精霊の仲間入りをしていた、といえそうである。そこには、ひっつみのお供えもあった。
やがてお帰りの先生は、詩についてはなにも言わず、ぶっきらぼうにその後のこと、つまり事務所に寄って下さい、などといったが、そこにはいかにも詩人らしい、先生のシャイな一面が出ていたように思う。きれいな人の訪れに、驚いてもいたのか。そうした場のようすに応えて、というべきか、遠く六十年が過ぎてなお、その折りの先生との出会いの記憶は、山崎さんの脳裏に、鮮明な一枚になって残ったのであった。
その後は県立図書館(当時は県公会堂の前)を尋ねて、やがて山崎さんが仕事中のお二人に加わってゆくことになるのも、これはごくしぜんな帰結であったろう。 そのお二人は、新しい『新樹』を支える、若い編集陣であった。
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