■ 「賢治にもキリスト教精神」 山折哲雄氏が岩手大学で講演
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宮沢賢治と斎藤宗次郎の交流について語る山折哲雄氏 |
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1日に開学記念日を迎えた盛岡市上田3丁目の岩手大学(平山健一学長)で同日、開学記念学術講演会が開かれ、宗教学者で国際日本文化研究センター名誉教授の山折哲雄氏=花巻市出身=が「宮沢賢治と斎藤宗次郎−『雨ニモマケズ』物語」と題して講演した。同日は、盛岡高等農林学校(1902年設置、現岩手大農学部)時代の時鐘が復活した「上田の鐘」除幕式、1日に開設した宮沢賢治センター(代表・望月善次教育学部長)の看板上掲式も開かれた。
同大が開学記念講演会を開くのは36年ぶり。山折氏は、「雨ニモマケズ」のモデルともいわれる斎藤宗次郎(花巻市出身)と賢治の関係に新たな考察を示している。会場の学生センターには学生、教職員、一般市民ら200人以上が参加し、本学の同窓生でもある2人の人間的な交流に耳を傾けた。
「『雨ニモマケズ』の東ニ病気ノコドモアレバ−の文章を読むと、宗次郎が花巻で新聞配達をしている姿と重なるんです」と山折氏。花巻農学校時代の賢治と親交を結び、「花巻のトルストイ」ともいわれた宗次郎の92年の人生に迫った。
宗次郎は内村鑑三の愛弟子で、敬虔(けいけん)なクリスチャンだった。盛岡師範学校(のちに岩手師範学校、現岩手大教育学部)に学び、24歳で内村に出会い、キリスト教の生き方を選択する。
花巻で教べんを執るが、教室で反戦の態度を表したことで教職を追われ、地元の人からも不審の眼(まなこ)を向けられるようになったという。「宗次郎が新しいキリスト教に踏み出したとき、地元の人に理解されなかった。当時における花巻で賢治の文学に深い理解を持っていたのが妹のトシ1人、または高村光太郎と2人だけだったことと似ている」 宗次郎は、弟子の身を案じた内村の説得もあり、地元の少年たちとともに新聞取り次ぎの仕事を始める。新聞を配達しながら祈りを捧げる姿は、東京の新聞人の間で「花巻にトルストイがいるぞ」と話題になったという。
大正10年(1921年)、宗次郎は新聞配達の仕事で花巻農学校を訪れ、賢治と出会う。同15年(1926年)までの交流の様子が宗次郎の日記に記され、「春と修羅」のゲラ(校正刷り)を見て感動したことなどが書かれているという。
内村は多くの弟子を持ったが、その厳しさから離れていく人も多かった。宗次郎は内村の仕事を手伝うために東京に引っ越すほど師に尽くし、内村の最期もみとったという。
山折氏は宗次郎と賢治を比較し、「宗次郎はキリスト者としての道を迷うことなく突き進んだ人。賢治は日蓮法華経の世界に最も関心を示したといわれるが、本当にそうだろうか」と課題を提起。
賢治の実家が浄土真宗に熱心だったことに加えて「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」などにはキリスト教の要素も感じられるとし、「浄土真宗に感化され、キリスト教などへの関心が重層化していった。これは日本人としては特別なことではない」と述べた。
「賢治は人生においては失敗したという研究者もいるが、あらゆる可能性に挑戦した人だった。現代のわたしたちも専門だけでいいのかと気づき始めている。学生の皆さんもこのような素晴らしい2人が出ていることを誇りに、いろいろなことに挑戦してほしい」と激励した。
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