■ 女手ひとつ築いた一代 玉山製材所会長の小笠原トモさん(82)
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玉山製材所の現場を前に立つ小笠原さん |
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玉山製材所の会長を務める小笠原トモさん(82)=盛岡市玉山区日ノ戸50の18=は土木用材の生産で一代を築き、本県林業・木材産業界で長年にわたり活躍してきた。自らハンドルを握って山道に乗り入れた若いころ。「女のトラック運転手は珍しくて、すれ違う男の人たちに『山の神さん』と言われた」と、越えてきた峠を振り返る。小笠原さんは本県画壇に名作を残した夭折の画家内村吉助の縁者でもある。今は現役を退いて好きなパステル画に打ち込む毎日、家族のために画集を出す準備を進めている。
矢巾町出身の小笠原さんは戦前、盛岡の三戸町にあった豆腐屋に嫁いだ。太平洋戦争後は復員してきた夫とともに事業を営んだが、家族の事情もあって玉山村の製材所を引き受けることになった。玉山の人たちが豆腐の豆や炭を運んで三戸町まで来ていたので、交流があった。今は盛岡市になったが当時の道のりは険しかった。製材業はまさに男性社会。
「昭和35年ころ大型トラックの免許を取ってアメリカの払い下げの大きなトラックを運転して仕事をした。ブレーキは足が届かないし大きな木のハンドルだった。昭和40年に主人が亡くなったとき、わたしがこんな危険な仕事をしていて、もしものことがあれば娘たちがかわいそうと思って運転はやめました」。1965年に夫に先立たれてからは社長に就任、経営も切り盛りすることになった。
「製材業は家を建てる木材が多いが、うちはトンネルやダム工事の土木用材を生産していた。新幹線や高速道などゼネコンの仕事も多かった。トンネル工事で土留めに使う板や柱は全部木材。今にもトンネルが崩れそうだというと夜中でも用材を早く持ってこいという。仕事はきつくて時間との競争だった」。小笠原さんの細腕が経済の高度成長を支えた。
「その後はトンネル工事にナトム工法が取り入れられた。山を掘ると水が出てくるので1日わずかずつしか掘れなかったが、鉄の鋼材を入れてコンクリートで吹き付ける工法。だんだん注文は減っていったがまだ土木用材の需要はあった。北は青函トンネルの現場に竜飛岬まで、南は安達ヶ原トンネルまで行った」と現場を駆け回った日々を思い起こす。
「自分が女だと思ったことはなかった。注文をもらって契約すると責任を持って説明に行った。休むと工期が遅れる。その責任感が大変で、あすの仕事はどうしようと汗をかく実感があった。それでも従業員は夜昼なく働いてくれた」と、従業員の苦労をねぎらう。
昭和から平成に代わるころ、娘婿の利雄さんに社長を譲って経営からは退いた。荒っぽい実業の現場から一転、絵筆を取ってキャンバスに向かった。小笠原さんは夭折の画家内村吉助の縁戚にあたる。
「昔、小笠原の家に嫁いできたときに立派な絵が飾ってあって、この人は誰なのか聞いたら内村吉助という人だという。長い間、自画像くらいしか残っていないと思っていた人の絵があるときたくさん発見されて再び光が当てられ、吉助さんもうれしく思っていると思う」。
小笠原さんは若いころは岩手町のエコール・ド・エヌで活動していたこともあったが、経営者の間は絵心を抑えていた。会長職に退いてから社会保険センターでパステル画を学び、今年は画集を出版する。「自分の一族にこんな人もいたのだと家族に残すための画集です」と話す小笠原さん。人生を回想しながら静かにパステルを走らせている。
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