2006年 6月8日 (木)
■ 戦渦の中の手紙をみる 盛岡てがみ館で企画展
吉田三郎が兄の吉田孤羊に本土決戦の沖縄から出した手紙(1944年7月9日)
盛岡市中ノ橋通1丁目の盛岡てがみ館(田鎖壽夫館長)で、第21回企画展「戦渦の中の手紙をみる−戦後60年が過ぎて…」が8月16日まで開かれている。戦渦の中で人々は何を感じ、何を手紙に託そうとしていたのか。「なんと言(っ)ても米国が目の前に来てをりますからもう戦友等は覚悟はしてをります−」戦地から故郷の肉親らにあてた手紙などから、戦時下につづることのできなかった思いも探っている。
展示資料は、明治37年(1904年)から昭和50年(1975年)の手紙類24点と絵はがき、写真などの参考資料82点の合わせて106点。空襲のつめあとが生々しい現在の盛岡市肴町の終戦日の写真や当時の雑誌なども展示。時代背景を視覚的に見せながら、手紙につづられた言葉の重みを伝えている。
書簡、はがきの手紙類は、終戦の年の昭和20年(1945年)前後のものが多く、文面からも緊迫した空気が漂う。
中でも目を引くのは、盛岡市出身の吉田三郎(1915−1945年)が、兄である啄木研究家の吉田孤羊(本名・徳治)にあてた7通。徴兵検査の合格を報告する手紙から、本土決戦の場となる沖縄県から出した手紙まで、故郷を離れて戦地に赴いた一人の青年の目で戦争がつづられている。
手紙のほとんどは軍事郵便として検閲を受けているため、内容は日々の暮らしの様子にとどまっているが、昭和19年(1944年)7月9日に沖縄から出された手紙は唯一検閲の印がない。
手紙には、沖縄は甘藷(かんしょ)や黒糖が多く、歯医者が多いことなどが書かれ、「こんな事ばかり書いて居ますと兄さん達に申訳がありませんが こんなことより書(か)れませんのです」と、苦しい現状を吐露。
「なんと言ても米国が目の前に来てをりますからもう戦友等は覚悟はしてをります」と、戦局が重大な局面を迎えていることを感じている。手紙を書いた吉田三郎は翌20年(1945年)に戦死している。
当時を伝える資料として、戦地に赴く兵士に持たせた「千人書き」(1945年製作)も市民の提供を得て展示。身近な人たちが日の丸の旗に寄せた言葉には「生て帰らば勝って帰れ 然らんずば死して帰れ」と激励するものもあり、時代背景を映している。
田鎖館長は「検閲を受けるために書きたくても書けないという人々の胸の内、そこに書かれている以上の思いが伝わってくるようだ。どのような状況で手紙が書かれたのか、幅広い世代の人に関心を持ってもらいたい」と話していた。
同企画展の展示資料などを紹介する館長トークは、7月8日午前11時と午後2時の2回開かれる。参加は自由だが、入館料が必要。
開館時間は午前9時から午後6時(入館は同5時半まで)。毎月第2火曜日休館。入館料は、一般200円、高校生100円。中学生以下と盛岡市内に住所を有する65歳以上の人は無料。
問い合わせは、盛岡てがみ館(電話604−3302)まで。
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