■ 〈古文書を旅する〉118 工藤利悦 糠部五郡とは…
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■一、糠部五郡のこと
古来階上郡と言うは北郡(七戸・田名部)、三戸郡(八戸・三戸・四戸・九戸・六戸)、九戸郡(二戸郡の内福岡・一戸)、ただし行信公の御代に仰せ立てられ、九戸を分けて二戸郡を置きて四郡となる。
これに岩手郡、鹿角郡を加えて糠部五郡と云い、外に志和郡・稗貫郡・和賀郡・閉伊郡、右を合わせて御領分十郡となる。また云う糠部五郡と云うは三戸郡、九戸郡、北郡、鹿角郡、津軽郡、右五郡を云う。
八の巻に詳(つまびらか)なり、糠部は今に二戸郡にこの名残りて糠部の郷と云う。一戸は二戸郡に、今一戸村と云うあり。すなわちこれなり。
【参考】 八の巻の説
建久四年光行公、頼朝公より御拝領の糠部五郡は三戸郡・九戸郡・北郡・鹿角郡・津軽郡、これを糠部五郡と云う。(二戸・三戸・九戸・北郡、これを階上郡と言う)、また云う、古来階上郡と云うは北郡(七戸・田名部)、三戸郡(八戸・三戸・四戸・五戸・六戸)、九戸郡(二戸の内福岡・一戸)なり。ただし行信公御代仰せ立てられ、九戸を分けて二戸郡を置きて四郡となる。右、北郡・三戸郡・九戸郡へ岩手郡・鹿角郡を加えて糠部五郡と云い、外に志和郡・和賀郡・稗貫郡・閉伊郡を合わせて御領分十郡なり。
糠部は今二戸郡にこの名残りて糠部の郷と云う。一戸は二戸郡に今も一戸村あり、すなわちこれなり。
「太平記」関東の大勢上洛の事をいへる条に、こがねづくりの太刀を二ふり(振)は(佩)き、一のへいぐろといふ。板東一の名馬五尺三寸ありけるに打ちのり云々。考えるに陸奥よりよき馬出たること国史及び古書ともに見ゆれば、この馬も一戸より出たるにつきてかく呼びたりと見ゆ。(頭註に)『奥南旧指録』言う。階上郡は二戸三戸九戸北郡也。これは往古一郡の処、利直公仰せ立てられ四郡に御分けなられ也。また奥州糠部五郡とは岩手郡、三戸郡、糠部郡、北郡、鹿角郡なり、これを五郡と云う。
【解説】
■ 糠部郡 南部家の所伝と初見
近世南部家の所伝によれば、『寛永諸家系図伝』は初代南部光行が糠部郡を領有したことに触れていないが、『祐清私記』は文治五年(一一八九)説をとり、『寛政重修諸家譜』も「文治五年七月伊達の泰衡(平泉の藤原泰衡のこと)を征伐のため陸奥国に発向のときこれに従ひ、阿津賀志山国見沢(福島県)にをいて戦功あり、泰衡亡びてのち陸奥国を分けて軍功の士三十六人に宛行はる、光行もその列にありて九戸、閉伊、鹿角、津軽、糠部の五郡を領す、十二月二十九日糠部郡三戸に入部す」と作る。
一方、『南部根元記』は建久二(一一九一)年とし、『御当家御記録』も同説をとる。これに対して『聞老遺事』は建久六年(一一九五)説を掲げて次のような考証をしている。
「考えるに、公(光行)甲州を発し奥州に入りたまう年号は、盛風記(奥南盛風記のこと)建久二年とす。旧指録(奥南旧指録のこと)南栄記は承久元(一二一九)年となす。これ皆非なり。東鑑を考えるに建久六年七月十日、今度上洛の間供奉の御家人等多く身の暇を賜り国に帰るとあれば、この年の十二月なること明らかなるべし。今年四月までは公の御名東鑑に見えたり(中略)旧指録に承久とするは、建の字形相似たるを以て誤るものならん。元と六とまた字形相似たり。これ皆伝写の誤りなるべし。
糠部は『吾妻鏡』文治五年九月三日・十七日条に「糟部郡」「糠部駿馬五十匹云々」と見えるのが初見。南部家が糠部を領有したとすることに異説はないが、いつから領有したかについては諸説錯綜して定説は知らない。
蛇足ながら二戸郡が九戸郡から分離したことについて、本文では「行信公の御代に仰せ立られ」とするが、『奥南旧指録(おうなんきゅうしろく)』は「利直公の御代」に作り『内史略』は信直公御代に作る。現段階で時代を特定する史料は管見に無いが、寛永十一(一六三四)年八月四日附の南部山城守(重直)宛徳川家光の領地御判物には二戸郡を記載してあり、行信公の御代は無い点だけは指摘しておきたい。
■ 糠部五郡について 糠部(ぬかのぶ)とは古代の奥六郡のさらに北に位置し、青森県下北郡・むつ市・上北郡・三沢市・十和田市・三戸郡・八戸市と岩手県二戸郡・二戸市・八幡平市(旧安代町分)・九戸郡・久慈市を包括した地域の総称。
『津軽一統志』は「津軽と糠部の堺は糠壇の嶽に湖水あり、十湾の沼ともいふなり」といい、十和田・八甲田を堺して太平洋側を糠部。日本海側を津軽としている。
また、本文では階上郡に触れて「古来階上郡と云うは北郡(七戸・田名部)、三戸郡(八戸・三戸・四戸・五戸・六戸)、九戸郡(二戸之内福岡・一戸)也」とあるが糠部郡の内を姉平・一戸、葛巻・野田・久慈・種市・古軽米・金田一・三戸・名久井・剣吉・櫛引・八戸・中市・新井田・沢田・洞内・七戸・野辺地とする天正二十(一五九二)年六月十一日附で、蒲生氏郷の代官に宛てた家老連書状(『南部大膳大夫分国諸城破脚共書上』)および現在盛岡市内丸の桜山神社境内に建つ鐘楼堂にある旧盛岡城時鐘の在銘「所領大郡所謂和賀・稗継・志和・岩手・閉伊・鹿角階上七郡也」に照らして糠部郡と階上郡は同域異称の郡名と知られる。
ただし糠部五郡と言うときには諸説が錯綜している。
本文では、まず北・三戸・九戸・岩手・鹿角の五郡と言い、三戸・九戸・北・鹿角・津軽の五郡説を併記している。『寛政重修諸家譜』には「九戸、閉伊、鹿角、津軽、糠部の五郡」が見える。『津軽一統志』には糠部六郡、閉伊七郡とも見える。
総じて前段の糠部が狭義の糠部。糠部五郡は広義の糠部で中世南部氏が領有した領域を示すものと考えるならば、他にも多くある可能性は否定しない。
なぜなら、糠部の中世史にはいささか疑問を有するものの『南部家譜』が語る「栄枯盛衰の歴史であった」とする記述には実態は見えないながらも史実があると考えるからである。
それに伴い領域の広狭は連動したであろうし、その時々の領域について所伝があって不思議はない。時間差を無視して一次元の世界で見ることにより、諸説ともに異説と見えるのは当然とする独断と偏見に充ちたへりくつ論ではある。
■ 中世文書に見える糠部
これまで南部家が伝えて来た中世史にさまざまな疑問が生じている。近世に編纂された所伝と、伝存する中世文書が伝える記録の間に乖(かい)離があるということから生じる疑問である。
その中から二三の事例を紹介することとする。
そもそも鎌倉時代には、糠部は執権北条氏の直轄地(得宗領という)であったらしい。九戸は南左馬権頭茂時(連書北条茂時)領。五戸は北条時頼の地頭代として三浦介盛時が補任されていた(『宇都宮文書』寛元四=一二四六=年、時頼状)。北畠顕家国宣(『遠野南部家文書』・以下同じ)によれば、いずれも北条氏の被官であるが、久慈には工藤氏の一族二階堂氏(元弘四年状)があり、三戸・南門(葛巻方面)には横溝氏一族、一戸・八戸・七戸等には工藤氏一族。三戸の内に会田氏等が所領を没収されている。
これらは鎌倉幕府の滅亡に伴うもの。伊達氏、結城氏、中条氏等が新地頭として補任された経過も知られている。また一般的には八戸は建武元(一二四六)年に南部師行が根城を構築して以来、寛永四(一六二七)年に遠野へ移転するまで連綿として子孫が領有したとされているが、正平五(一三五〇)年の政長譲り状によれば、政長自身の勲功により領有とあり、所伝に誤りが見受けられる。
『八戸家伝記』は政長を師行の実弟にして嗣子と作るが、『公国史』は、同文書に苗字の記載がないことも論拠の一つか、真偽は別にして、天正五(一五七七)年に南部氏の末裔破切井弥次郎実春が甲州で武田信玄に滅亡せられ、その遺児弥六郎義長が難を逃れて糠部に下り、透きを見て根城工藤氏の城を乗っ取った経緯を記述している。
詰まるところ、糠部の中世史は混沌としており、新井白石は『藩翰譜』の中で、三戸南部氏と糠部の関係は応永年間(一三九四〜一四二八)、南部守行の時代から始まるのではないかとした推論は空論ではないところに共感を覚える。
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