2006年 6月18日 (日) 

       

■  〈盛岡百景〉69 運動公園脇のケヤキ並木

     
  緩やかな曲線道路とケヤキ並木の葉の緑が心地よい上堂2丁目青山4丁目線  
  緩やかな曲線道路とケヤキ並木の葉の緑が心地よい上堂2丁目青山4丁目線  

 みたけ地区は商業店舗、工場、文教施設、住宅などが混在する。戦時中までの陸軍練兵場は戦後、観武原(みたけがはら)開拓地として農耕地帯となったが、今日のような市街地に変化していった大きな契機は県営運動公園の立地だった。戦後の復興が落ち着いた時代に作られた街区は今日の基本になる要素が見られ、歩車道分離と街路樹もその一つだ。

  盛岡市の都市計画区域の変移を見ると、1967年の区域の見直しと用途地域変更で、今の運動公園と周囲が区域内に入った。70年に市街化区域に入ったが、67年ごろはまだ開拓農家が点在するだけで大半は農地だった。

  62年、県、盛岡市、県体育協会の協議で67年に向けた国体誘致委員会の設置が正式に決まった。同年国体の誘致は実らなかったが、68年に70年国体の岩手開催が決定。県営運動公園の整備は国体誘致委員会の設置決定の年に動き出していた。市が主会場となる陸上競技場用地として開拓地の用地を選定し63年に買収。県営運動公園陸上競技場は68年に完成する。

  都市計画区域への編入と運動公園の整備は相関し、周辺へ波及した。都市計画上の用途地域は運動公園が第2種住居地域で都市公園・緑地に分類され、周辺の多くは工業地域、そして一部が準工業地域、第1種住居地域に指定されている。

  工業地域の指定で、73年ごろには工場が幾つか既に立地し、滝沢村に移転した盛岡大学の前身、現盛岡中央高校、みたけ小学校などが開学していた。住宅はまだ旧来の民家から多少増えただけ。しかし、南の青山地区から住宅開発の波が押し寄せていた。79年ごろには用途が寛容な工業地域にも住宅が増え、運動公園周辺は職住混在の地域に。さらに年月を経て商業店舗が増加し、郊外型商業地の市内の先駆けとも言える存在になった。

  完全に市街地化した地域だが、運動公園内には緑が豊かな市民が身近に憩える空間。公園整備とともに周囲の街路が整備され、街路樹景観が形成されている。市道稲荷町谷地頭線にはイチョウ、市道上堂2丁目青山4丁目線にはケヤキが植えられた。枝を広げるケヤキは細かい葉を多く付け、暑い日には歩行者に優しい緑陰をもたらす。街路樹にはせん定に強い樹種が選ばれる傾向があるが、ケヤキのせん定は最小限の方が見栄えがいい。

(井上忠晴記者)


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