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■江戸御城二の丸にて行信公御能並びに番組
一、貞享二乙丑年十月九日、江戸御城二の丸にて御能、諸大名へ仰せ付けらる御番組左の通り。
この節将軍綱吉公御覧なり。行信公御年四十四歳。台命(だいめい=将軍の命令)によって三井寺を勤めたまう。もっとも御部屋住(家督前)の節なり。
中川佐渡守「高砂」 ツレ鷹井平三郎・金森左京亮・門ノ九郎次郎・幸 清六・三九郎(金春彦九郎跡目)・市右衛門(春日)。池田丹後守(丹波守の誤り)「頼政」 権七(春藤)・三郎右衛門(金春)・権九郎(宝生)・忠次郎(笹井)。松平左京大夫「東北」 松平長門守・権七(春藤)・新九郎(宝生)・庄兵衛(小笛)。松平讃岐守「自然居士」 細川若狭守・門ノ九郎次郎・中村新右衛門・六郎左衛門(中村)。松平紀伊守「野々宮」 彦太郎(高安)・三太郎(高安)・長右衛門(大倉)・織田美濃守(佐渡守とも信濃守とも)。牧野駿河守「船弁慶」 金森左京亮・助右衛門・新右衛門(中村)・左吉(観世)・六郎左衛門(中村)。松平備前守「百萬」 源七(春藤)・九郎次郎(門)・権九郎(宝生)・又次郎(金春)・庄兵衛(小笛)。有馬左衛門佐「葛城」 新之丞(春藤)・三郎右衛門(金春)・清六(清六)・三九郎(金春)・忠次郎(笹井)。安藤対馬守「班女」 権七(春藤)・市郎兵衛(葛野か)・黒田甲斐守・市右衛門(春日)。南部信濃守行信公「三井寺」 新之丞(春藤)・三太郎(高安)・新九郎(宝生)・庄兵衛(盛田)・次郎太郎(大倉)・弥次郎(大倉)。南部遠江守(八戸藩主)「海上(海人か)」 彦太郎(高安)・三郎右衛門(金春)・権九郎(宝生)・又次郎(金春)・市郎左衛門。田村右京亮(一ノ関藩主)「三輪」 源七(春藤)・市郎兵衛(葛野か)・清六(清六)・左吉(観世)・市右衛門(春日)。
以上 このころの諸侯は能を好み、また儒学を専らとせられしかは、この両道当将軍綱吉公が御好みありし故の余風なりと。
右三井寺を遊ばされ候御衣装は御宝物と成り、御小納戸にこれありし由、御面は淡路丸にこれありという。この節御大名衆十六人、金森左京亮殿は交代御寄合なり。御囃子方、ワキ方は四座の者これ勤むる。(『篤焉家訓』)
【解説】
■ 歴代藩主と能楽
古来、南部家は能に嗜(たしな)みの深い家柄と知られている。宝暦三(一七五〇)年の『御面帳』には三百四十三面が記録されている。作者別にみると、利視公御作六面、赤鶴作は男蛇ほか十四面、龍右衛門作は橋姫ほか四面、福来作は笑尉ほか十面、日永作は姥ほか七面、徳若作が三カ月ほか五面、元休作は深井ほか七十面等など。
中でも有名な「白露」は重信の作と伝え、宝生大夫重友が感嘆して「重信公御作見事に候、蘭主はたれとも白露のこほれて匂ふ野への秋風」の歌を添えて命名したと伝えている。
「男蛇」(赤鶴・南北朝時代の作)は将軍綱吉の上覧に供し、しばらく営中に留め置かれたもの。「深井」(赤鶴作)は本文に見る行信が営中で「三井寺」を舞った時に使用したもの。「般若」(元久満作)には「源利視公御工夫之指図にてこれを作る」とある等などである。
宝暦八(一七五五)年から明和五(一七六八)年に至る期間に毎年検印が押捺されている『御能装束鑑』上中下三冊によれば、その総数千二百六十七点を数え、その主な内訳は唐織七三、箔一二七、狩衣四七、長絹五七、舞衣一二、水衣一〇五、熨斗目六〇、法被三六、側継一三、直垂上下一七、半切四四、素襖四八、角帽子三五、鉢巻二六、大口三三、翁装束五五、小道具一三三、扇子五五、次小道具二三二、次扇子五など。
以上のほかに脇方ならびに狂言方の装束および小道具帳がそれぞれ別に作られている。歴代藩主の中でも、重信・行信・利視・利雄の代は盛岡藩能楽史上まれに見る隆盛の時代であった。
■ 能の記録の初見
『北松斉覚書』の原本は昭和二十年の盛岡空襲の時に焼亡した(『岩手県史』)が、伝存する写本によれば、信直の使者として金沢の前田利家の許に向けて天正十五(一五八七)年二月に三戸を出発。四月二日到着。数日の滞在中、初日は能九番通りのごちそうがあり。
その他茶の湯・鷹狩り・宮越湊での引き綱、さらには城中の案内など歓待された記録が初見とされている。一方、『南部藩能楽史』によれば、金春八郎岌運の自筆謡本で背表紙かに「所望に依て節付け申し候」(新渡戸仙岳翁所蔵)とある写真を掲載し、安土桃山時代に盛岡藩の誰かが金春八郎喜勝に師事したものかとある。
しかし、謡本だけの移動も考えられよう。師事を受けた人物を特定しなければ確たることは断定は出来ない。とは云え、『大館日記』や『信長公記』に散見する中央要人との接触などの事柄が南部家に伝承されていなかった事を考慮するならば、『南部藩能楽史』の見解はもちろん否定出来るものではない。
■ 能上演の初見
『雑書』によれば、寛文五(一六六五)年六月晦日の条に「若殿様、御居間において、殿様へ御膳上げなされ、御相伴毛馬内九左衛門、漆戸勘左衛門(中略)、御膳過ぎ拍子三番高砂、東北、羽衣、終て躍狂言これ有り云々」とあるのが初見のようである。
ちなみに『南部藩能楽史』は「万天日録」を引いて慶長三(一五九八)年五月に南部大膳大夫(信直)が御老中を招請して能興行」とあるのを初見とするが、南部大膳大夫は重信。天和三(一六八三)年の誤りである。なお、『雑書』による謡初めの初見は寛文二(一六六二)年正月二日。次に見えるのは
同八年正月二日で「今晩御謡初、遠藤慶悦小謡二ツ三ツ云々」とある。
遠藤氏について、特段能楽に関する伝を聞かないが、『参考諸家系図』に従えば、明暦年間に江戸で召し抱えらると見える。盛岡藩に伝承される経路の一端が垣間見えると云えよう。
■ 行信、江戸城での仕舞い
ここで取り上げられている記録は貞享元(一六八五)年十月五日、江戸城二の丸において将軍上覧能が催された折の目録。出演した諸侯十六人の中の一人として行信があり、三井寺を勤めたことを伝える記録である。「紺地寿字雪桃折枝模様」の衣装を着用したという。
関連して『徳川実紀』には、「二丸にて猿楽御遊びあり、三家、甲府宰相綱豊卿、松平加賀守綱紀、保科肥後守正容(以下四人割愛)各杉重(お菓子)を献じ、中川佐渡守久恒、南部信濃守行信、南部遠江守直政(八戸)、有馬左衛門佐清純、黒田甲斐守長重、牧野駿河守忠辰(以下十三人割愛)みな召されしかば肴を奉る。
さて能組、高砂は佐渡守久恒(中川)、頼政は丹後守輝録(池田)、東北は左京大夫頼純(松平)、自然居士は讃岐守頼常(松平)、野々宮は紀伊守光晟(松平)、船弁慶は駿河守忠辰(牧野)、百萬は備前守正信(松平)、葛城は左衛門佐清純(有馬)、班女は対馬守重博(安藤)、三井寺は信濃守行信(南部)、海人は遠江守直政(南部)、三輪は右京亮建顕(田村)つかふまつる。とある。
■ 『土芥寇讎記』に見る行信の能楽
元禄二年(一六八九)頃に幕府の側で作成された諸大名の人物評『土芥寇讎記』は、父重信を名君と評する一方、世子行信について、猿楽の巧者と認めているが評は手厳しい。
「朝夕猿楽を好み、自己にも舞い袖の屈伸、扇子の遅速、褒貶のほか他事無し、これ如何なる事ぞや。主将としては、文学して身を修め、心を正しくし、家を斉(ととの)え、国郡をも治る事を旨とし、次に家業なれば武法を学び、呉子、孫子、太公望等兵術を学び、錬磨し、士卒を指揮し、或は諸葛孔明が八陳、且つ敵に転化するの法を明めて後、余力有る時、猿楽も翫賦ぶは大名の役なれば尤もなり。家業の勤め知るべき道をは夢にも知らずして、家にもあらぬ猿楽の稽古に心を弊し・金銀を失ふ事、斯くの如きを無道と云也。己が所作をば捨置き、家業にあらざる事を習ひなば、其の家の業を忘却し、又忘却せずとも業下手に成て、見聞せしと云人も有るまじ」。
行信は文武両道に秀で名君の誉れ高い藩主として第九十四話「行信公のこと」でもその一端を紹介している。しかし、ここに見る行信は別人の感がある。人物評ほど難しいものはないことを痛感する。
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