2006年 6月25日 (日) 

       

■  盛岡弁で先人を語る 親族がエピソード披露

     
  盛岡弁に親しむ会主催の第14回市民公開講座  
 
盛岡弁に親しむ会主催の第14回市民公開講座
 

 盛岡弁に親しむ会主催の第14回市民公開講座「盛岡にゆかりのある先人を盛岡弁で語る」が21日、盛岡市本宮字蛇屋敷の市先人記念館で開かれた。同館で顕彰されている浅野七之助氏、金田一京助氏、横田チエ氏の3人の思い出を、それぞれの親族が盛岡弁で講演。約100人が会場を訪れた。

  浅野七之助氏(1894〜93年)は19歳のときから5年間、当時内務大臣だった原敬の書生となり、1917年に渡米。排日運動の中、サンフランシスコの日米新聞の記者として活躍した。夫が七之助氏のおいに当たるという浅野孝子さんが語り部を務めた。

  終戦後、母国が困窮し、深刻な食糧危機に陥っていることを知った七之助氏は、在米の日系人に呼び掛けて救援物資を送る活動を開始。日本国内では、米軍によりララ(LARA)物資と名付けられ、米国からの援助ということで配布された。七之助氏は米軍に抗議したが受け入れられなかったという。

  七之助氏は「協力してくれた日系人に申し訳ない。天皇陛下だけにはせめて知ってほしい」と50年に帰国。天皇、皇后両陛下に報告すると、天皇陛下は大きくうなずいて、感謝の言葉を述べたという。ララ物資の前で、両陛下と写った写真が会場で披露された。

  その後も七之助氏は、古里に深い愛情を持ち、岩手ゆかりの渡米者の援助をし続けたが、93年に98歳で他界。盛岡市での法要の席で、その子供たちは「父は盛岡が自分の故郷だと、何回も何回も言い続けていた」と話したという。孝子さんは「盛岡を懐かしみ、愛していたという思いが強かったんだなと思いやんした」と盛岡弁で心情を吐露した。

  金田一京助氏(1882〜1971年)について語ったのは、おいの金田一達男さん。京助氏はアイヌ語研究のために北海道に渡るとき、必ず盛岡の達男さんの家に寄った。すると、京助氏以外のきょうだい10人が集まったという。

  会食の席で、京助氏の姉が「この人は啄木づう(という)あの不良に肝取られるどごだったのす」と言うと、京助氏はきっとして「いや、石川君はそんな人ではありません」と必ず弁護したことを思い出す。

  達男さんにとっては優しい伯父だったという。泊まった翌日の朝は、散歩に連れて行ってくれた。必ず行くのは開運橋。橋の真ん中に立って、岩手山を眺めて深呼吸。「盛岡の空気はうまい。開運橋から見た岩手山が、どこから見るよりも一等いい」と言っていたというエピソードを話した。

  横田チエ氏(1901〜79年)については、次男の横田綾二さんが紹介。チエ氏は一戸町生まれ。二戸郡福岡小での教諭時代に、社会主義者の忠夫氏と出会い結婚した。

  2人は東京、大阪と居を移しながら活動に没頭。忠夫氏は33年、盛岡市議選に最高点で当選するが、時代は軍国主義へ。社会主義、無産運動は封じられた。

  40年、忠夫氏は盛岡市内の交番に留置され、自殺。そのときにチエに残した遺書が先人記念館に収蔵されているという。

  その後、チエは苦労しながら2人の子供を育て、47年に盛岡市始まって以来の女性の市会議員として当選。59年、県初の女性県会議員となった。

  綾二さんは「衆議院や参議院ではなくて、目の前にいる未亡人や、子供を抱えて悪戦苦闘するお母さんたちがいるところで政治活動をしたところが、わたしが母を尊敬するところ」と言う。「貧乏という言葉そのものをなくしたい。それが横田チエの一生でした」と締めた。


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