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巽先生ご夫婦の間にあった微妙な食い違い。わたしはそれを、昭和二十三年八月三日、『新樹』全国大会第三日めの会場で目にした。
それはちょうど閉会の時になって、巽先生がお隣の夫人を、わたしの家内です、と紹介された時のことである。なにかひと言、といわれたようすであったが、それとはいっこうに関わりのないようすで、洋画家の夫人は、スッと正面を向いたまま、黙っておいでであった。
しばらくして先生は、
「挨拶のしかたも知りませんで」
と笑っておられたが、あれはやはり、少し風変わりなシーンであったと思う。
ほんとうは、その全国大会の記憶の上に、その秋には千田忠兵さんから耳にした、汽車の中でのいさかいのことが重なったわけであるが、しかしなかなか、ケンカなどというようなできごとは、その後思い浮かべることはなかった。
ところがこんど、さまざまな資料に当たっているうちに、また、そうしたご夫妻の一件を記した、与田準一氏のめずらしい文章を目にしたのである。それには、
燃えたきち 火をふく山と かたはらの
煙はきをさめ 静もりし山
と書かれた色紙の写真があり、それには巽先生の署名もあった。与田氏によれば、これはその、二人のあいだのいさかいを詠んだものであるという。そして、「火をふく山」と「静もりし山」とは、いったいどちらが巽さんでどちらが奥さんであるか、わからない、と記していた。
その後、日野市郷土資料館での巽先生の生誕百年記念展(去年九〜十一月開催)では、この色紙の現物を見ることがあった。思わず、展示責任者の北村さんに、
「これはケンカの歌ですね」
と言って、先生のお嬢様・やよひさんに、
「先生はどちらの山ですか」
とおたずねしたら、やよひさんは笑って、
「『静もりし山』のほうです。父は負け
るほうなので」
と、すぐに答えて下さった。
−南吉のことばかり一所懸命にならない
で、自分の仕事をもっとやって下さい−−
そんなことも火種になった由。色紙にされるくらい、客観視されているなら、と考えて、今回このように書いたのであるが、もともと毎日飲んで、夜中に帰ってくる先生であってみれば、やはり非難されることも致し方なかったのであろうと思う。
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