2006年 7月7日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉122 工藤利悦 情報収集の生命線は閨閥にあり   

  ■ 南部三十三代信視公御代、高知名乗り並びに内室付き
  一、一万二千七百石 八戸弥六郎信有(「の室は」=以下同じ)山田大学利仲娘。
  一、二千八百石 中野吉兵衛光康 藤村源兵衛政貞娘。一、二千百五十石 北林弥節継 七戸外記 御娘。一、二千石 桜庭兵左衛門統起 楢山五左衛門隆好娘。一、二百六十石 北彦野右衛門愛聴(よし) 遠藤儀右衛門政吉娘。一、六百石 南半太夫晴昌 同姓彦八郎晴武娘。一、三百廿石 東彦七郎政寿 四戸権蔵宗明娘。一、千三百石 楢山文左衛門敬明 楢山友之助隆一娘。一、千二百四十二石 楢山五左衛門隆均 内堀将監利貞娘。一、千石 漆戸勘左衛門正宥 小寺玄仲利敬娘。一、千石 毛馬内九左衛門直員 同姓彦四郎安次娘。一、千五百石 江刺脇之助隆好(当時独身か、記載なし)。一、八百石 毛馬内三左衛門景次 小向四郎右衛門政純娘。一、千石 八戸内記義盡 松岡藤右衛門高忠娘。一、千石 奥瀬治太夫定恒 戸田内権右衛門吉冨娘。一、千石 桜庭政之丞秀統 同姓十郎右衛門統周娘。一、千石 野田藤兵衛親章 (楢山彦五郎隆屋娘)。一、千石 葛巻覚内祐胃 四戸久左衛門度武娘。一、千百石 内堀帯刀頼則 岩間将監栄炳娘。一、千石 漆戸主膳茂親 沢田長兵衛清行娘。一、八百石 下田権兵衛茂親 下斗米平四郎基政娘。一、五百五十石 下田覚蔵宣秀 目時小伝治正吉娘。一、七百八十四石 松岡藤右衛門忠榮 黒沢伝左衛門定愛娘。一、六百石 奥瀬内記定則 漆戸玄蕃正勝娘。一、千石 谷川左内尚方 同姓忠五郎義峯娘。一、七百四十二石 大萱生長左衛門秀雄 野田理右衛門親武娘。一、六百六十六石 多賀頼母長友 中原甚兵衛正相娘。一、五百石 新渡戸左五右衛門常顕 奥寺六之丞兼明娘。一、八百石 岩間九右衛門政方 中野吉兵衛光康娘。一、千石 藤枝宮内道魯 楢山文右衛門敬明娘。一、四百石 山田文右衛門直之(当時独身か、記載なし)。一、五百石黒沢伝左衛門定愛(当時独身か、記載なし)。人数〆三十二人 知行高四万三千百十四石。(『篤焉家訓』)

  【解説】
  本文は信視(のち利視と改名)の代における重臣(高知)三十一人について、通称と名乗(実名=じつみょう、諱=いみなとも言う)および妻帯者は妻(実名の記載は無いが父親の名前)を記録したもの。

  年代は、黒沢伝左衛門定愛が享保二十(一七三五)年十月の家督であることや、奥瀬治太夫定恒が同年十一月に隠居と知られており、享保二十年の書留と勘考される。

  たとえば南部家の系図書を見ると、諸侯に嫁いだ子女には室または内室とし、幕府旗本や家臣との縁組であれば妻と記載している。

  家臣である高知の妻女を、ここでは妻とせず内室としてあるのは、記録を留めた人物が立場を意識して記載していることを示している。身分社会であったことを忌憚なく伝える。蛇足ながら、江戸時代、武士の婚姻には主君の許可を必要とし、諸侯の場合には将軍家に対し、藩士は藩主に両家より縁組願を提出。許可を要するしきたりであった。
 
  歴史は時として不可解な動きを示すが、歴史のひだを読むときにこの手の記録は得がたい史料となる。至近な事例として明治政府が維新・戊辰戦争を総括した『復古記』に関連して紹介する。

  同書には奥羽越列藩同盟の一員として盛岡藩が処分されたことは明記しているものの、意外なことに主戦場であった鹿角口の戦いに関する記述はない。野辺地の戦い・雫石の戦いに至っては南部利恭家記録を以て官軍に故意に攻められ応戦した戦いとさえ読める記述である。

  記録の性格上、官軍に属した秋田佐竹家や弘前津軽家の記録が援用されてあれば、このような記述にはならなかったのではないか。何があって南部家の目線で記述する記録が取り入れられたのであろうか。

  実は、南部利剛の長女郁姫が華頂宮博経親王の簾中として皇室の閨閥となったからであろうと推察される。

  この縁組を取り持ったのは利剛の内室松姫・徳川明子(水戸徳川斉昭六女)の実弟・備前岡山藩主であった池田慶徳と言われている。関連で言うならば、南部家は中央の情報に疎かったと断言する人がいる。あるいは、当時既に幕府は大政奉後であるにもかかわらず、佐幕派とする論もある。もちろん、十五代将軍徳川慶喜は明子の弟である。

  皇女和宮の降下問題など、公武合体運動における公家側中心人物として活躍した二条関白斉敬の母(斉信簾中)は水戸藩主徳川斉昭の姉従子(順子とも)。従って関白斉敬は松姫の従弟。征夷大将軍として江戸城に入城した有栖川宮熾仁親王の母岸姫は二条関白斉信簾中従子の娘で松姫の従弟。熾仁親王の簾中繁姫は明子の妹。また、分家八戸藩主南部信順は薩摩藩主嶋津重豪の五男。

  閨閥の中で、そしてそれを取り巻く人々の中で情報は限りなく飛び交ったと見るべきである。歴史はそれら結果を具顕化したもの。閨閥を知ることが必要不可欠であると、知られる。

  次に高知について簡単に触れる。
 
  ■ 高知の初見
  高知という用語が記録上において初めて見えるのは、後世の編纂(さん)物である『内史略』后二に「二十五代晴継公御代大身の面々」(岩手史叢)という記載があり、解説者は「高知の面々」と解説する。『篤焉家訓』には、「二十七代利直公御代高知の面々」や「正保三(一六四六)丙戌年御一家 高知 并宮部兵蔵(今の多賀氏客分之節)、岸田右近 其外同心頭云々」とあるが、『雑書』正保三年正月元日條の文言では「御一門之歴々 殿中参礼」とあり、当時はいまだ高知の用語は存在していなかったと勘考される。

  同四年十二月二十六日条には「御家中大名分より御歳暮云々」と、「大名分」の用語が散見される。その後、慶安四(一六五一)年五月五日条に至って「如御嘉例、御一門之歴々、此外高知行分ノ衆出仕」。次いで同年十二月十三日条に初めて「高知之衆云々」が散見する。

  「高知」の用語は「高知行分ノ衆」からの変化と勘考される。
 
  ■ 高知の持ち役
  『南家古今雑記』によれば、高知を称して「三千石の禄を食める中野(南部)吉兵衛をはじめとして三十人ほどありたり、高知は家老職となり騎士の隊将となる。その他重要の職に当たれり、高知といえども四百石またはその以下の人もあれば、家老職その他重要の職を勤むる場合には勤中禄高かを増加して千石の資格を作る。五百石の人家老職となる時は五百石の増高あり。この増高は金方というものにて、百石は二十両なり。五百石は金百両なり。小身の者より抜擢せらるるときはこの例による」とある。

  このほか、藩主の内幣を統括する御側頭(天保八=一八三七=年御近習頭と改称)および蝦夷地警衛を統括する北地大御番頭等が持ち役であった。平常は高知のうち八戸南部家は、仙台に対峙して遠野城を預かると共に内丸三御門のうち本町に開く追手御門を預かり、中野南部家は秋田に対峙して鹿角花輪城を預かると共に、中津川に架橋する中の橋を介して呉服町と紺屋町の町境に開く中ノ橋門を、北南部家は津軽に対峙して鹿角大湯城を預かると共に、仁王・帷子小路および茅町・材木町方面に開く日影御門を預かった。

  このほか上記の三家と同様に秋田に対峙して鹿角毛馬内城を預かる桜庭家をはじめ、高知諸家は城下に配置された出口惣門十カ所。つまり川原丁橋詰惣御門・新山惣御門・八幡惣御門・加賀野惣御門・四ツ家惣御門・下小路入口惣御門・仁王惣御門・夕顔瀬橋詰惣御門・上田出口惣御門・花屋丁惣御門(『御者頭御定目』)を分担して預かり警衛にあたった。

  門の名称は時代により一様ではなかった。ちなみに桜庭家の場合、廃藩置県時に家士数は約百人を数えていた。
 
  高知の家の数は常に一定したものではなかったが、明治元年の支配帳によれば、家格は細分化され、御三家、着座衆七家、高知二十一家があり都合三十一家。明治二年三月の藩政改革で高知の名称は上士と改称され、まもなく廃藩置県で消滅した。




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