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標本室には100を超える蹄鉄が残る。装蹄師として岩手大学の教育研究に貢献した藤井義雄さん(左)。現役で活躍する川守田亨さん(右)は「その馬の能力を最大限、引き出すような装蹄を目指したい」と話す。
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蹄(てい)鉄は、馬や牛の蹄(ひづめ)の摩耗を防ぎ、さらに良い運動性を与えるために古来から用いられてきた。日本に初めて装蹄や蹄鉄技術が伝わったのはオランダ人ケーズルが来朝した1725年。洋式装蹄が行われるようになったのは幕末からで、一般に技術が普及したのは明治になってからと言われる。
岩手大学の標本室には明治期から昭和にかけて集められた数多くの蹄鉄や蹄の病理標本が残されている。蹄鉄だけで80個近いコレクションは恐らく日本一。当時の獣医師教育や装蹄技術を知る上で貴重な資料だ。
優秀な軍馬が求められ国を挙げて馬産が奨励されていた戦前、獣医師を志す者は必ず、装蹄を学ばなければならず、学生は木製の蹄の模型を使って蹄を削ったり、蹄鉄を打ったりする技術を身に付けた。海外からも取り寄せられたとみられる蹄鉄は、学生たちがじかに手に取って、その種類や機能を学んだ教材で、当時の教育に対する熱の入れようがうかがえる。
集められた蹄鉄は、競走馬や農耕馬のために作られたサイズの異なる「尋常蹄鉄」をはじめ、後足が前足にぶつかるくせがある馬の歩行を助ける「追突蹄鉄」、着地する蹄の角度を変えるために後部の厚さを増した「厚尾蹄鉄」、底に三角形のネジ式の突起を付け、凍った路面での滑走を防ぐ「氷上蹄鉄」など多種多様。
痛めた蹄の底を保護するため、中央に皿上に編み込んだ藁(わら)をはめ込む「藁底蹄鉄」、「突球」と呼ばれる間接の変形を矯正するための金具が付いた「鐙(あぶみ)蹄鉄」など治療技術が発達した今日ではほとんど見ることがない特殊な蹄鉄も残されている。
最近はアルミニウムなど加工しやすい素材で量産された蹄鉄を、馬に合わせて調整する方法が一般的だが、当時は一つ一つが特注品。同大馬術部の装蹄を担当する青森県田子町の装蹄師・川守田亨さん(43)も「蹄鉄技術を競う競技会でしか見られないような蹄鉄もある。作品としても素晴らしい出来」と驚く。
日本装蹄発達史(日本装蹄師会刊)によると、1890(明治23)年の蹄鉄工免許規則制定当時、蹄鉄学に関する系統的教育を実施していた学校は官公私立の獣医学校と農学校の獣医科・蹄鉄専科、帝国大学農科大学、府県立の農学校などで、本県では盛岡農業高校の前身の県立盛岡農学校でも教育が行われていた。
同大農学部附属家畜病院に30年以上勤務した藤井義雄さん(80)=盛岡市名須川町=は、祖父、父ともに蹄鉄工を営む家に生まれ、盛岡農学校で学んだ。装蹄師と牛の蹄を整える削蹄師の資格があり、戦時中は弘前第8師団で軍馬の装蹄に携わった経験も持つ。戦中戦後の装蹄の移り変わりを語れる数少ない人物だ。
「軍隊で落蹄(蹄鉄が外れる)すれば、見つかるまで何時間でも探し回る。そう簡単に見つかるもんじゃない。仲間の蹄鉄を上官にとがめられる前に直し、感謝されたこともありました」と当時を懐かしむ。
蹄の角度や釘の打つ位置の微妙な狂いが、体全体に影響を与える気の抜けない仕事。「蹄の角度や歩き方を研究し、肢軸を一致させることが基本。一人前になるまで聴診3年、打診5年、跛行(はこう)診断(足を痛めた馬の診断)10年と言うんです。厳しいですよ。でも、今の若い人は良くやっている。頑張ってほしい」と後進の活躍を期待する。
藤井さんが学んだ教科書「裝蹄學」(村田庚午郎、津守新之丞の共著、有誠堂発行、初版1933年)には、装蹄の利と害を解説した上で「裝蹄者ハ克ク技ヲ練リ細心業ニ當リ、以テ馬衛生ニ遺憾ナキヲ期セザルベカラズ」と記されている。その意気込みは時代を超え現代にも引き継がれている。
(取材協力・岡田幸助岩手大学農学部獣医学科教授)
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