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盛岡てがみ館で開催中の企画展「戦渦の中の手紙をみる」の館長トーク |
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盛岡てがみ館の館長トークは8日、盛岡市中ノ橋通のプラザおでって内の同館で開かれた。田鎖壽夫館長が8月16日まで開催中の企画展「戦渦の中の手紙をみる」をテーマに、日露戦争から第2次世界大戦後までの手紙30通など計80点の資料について解説した。
吉田孤羊(1902〜1973)の弟・三郎(1915〜1945)が孤羊にあてた第2次大戦期の手紙が展示されている。徴兵検査合格、弘前から満州に渡った経路に関するもの、戦争の激化で中国に入り、戦況悪化で中国から沖縄に到着したものなど7通ある。
「満州に渡った経路は当時、軍事機密で検閲が厳しい中、よく届いたと思う。沖縄での手紙を最後に戦死してしまうが、その間も本土では空襲があるのに手紙が届いている。戦死を覚悟する中、追伸で最近の家族の写真を求めている。それを持って死にたかったのではないか」と田鎖館長。
このほか展示品の盛岡の空襲や釜石艦砲射撃の写真、1944(昭和19)年、50、51年の配給切符、中川光力氏から貸与された45年の「千人書き」などにも触れ、「現代で戦後を伝える貴重な資料」と説明した。
来場した盛岡市みたけの主婦(70)は新潟県の満州の開拓団長だった義父の話を思い出しながら、展示に見入っていた。義父は3年前に他界したという。
「終戦後『断固生きるべし』と丸裸で帰ってきた。長野県の開拓団は全員自決したそうだ。ソ連国境付近で『女性を出せ』と言われ、義母は一歩踏み出ようとしたが子供が小さく、しのびないと義父が引き留めた。夫が戦死し、子供のいない女性が犠牲になった」。
「食糧増産とはいえ他の国に行くことは侵略と義父は言った。認知症になっても忘れられなかったようだ。毎年8月には雫石町の岩手山ろくで慰霊祭を開いてきた。今年は94歳の義母を連れていく。夫は当時小学3年生だったが展示には来ないと言った。海外旅行にも行ったことがない。わたしは義父母が苦労した現地に行ってみたい」と話していた。
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