前回は皇太子妃をめぐるエピソードを紹介したから、こんどは知る人ぞ知る、といった話を記しておこう。
これは昭和五十一年四月、聖歌忌のため盛岡を訪れた児童文学者与田準一氏の講演(日報、昭51428付)による。それは、白秋の有名な「からたちの花」は、巽の「からたち」などに触発されて生まれた、という内容であるが、順序としてまず、巽先生の「からたち」をあげておこう。
お盆が来た/お盆が来ると/私はきつと
あのことを思ひ出す。/小麦殼を横に抱
へて/お寺へ焚火に行つた時のことを。
桑畑につづいた家の垣根に/一本の枳殼
(カラタチ)の木があつて/つぶらな青い
実がなつてゐた。/私はその美しい実を
/俊ちやんと二人でもがうとしたのだ。
二人はすぐそこの家の人に見つかつて/
どなられた。
空にはきんぽうげの花弁のやうな/夕暮
の雲が二つ三つ飛び散つて/私達はその
下を/なんとも言へない気持で/うつむ
いて走つたのだつた。
なんといふ 悲しい思ひ出であらう。/
ふるさとにはまた枳殼がなつて/そして
今年も誰か/焚火にゆく子たちが/胸を
わくわくさせながら/あのきんぽうげの
やうな雲の下を/一散に走るにちがひな
い。
与田氏はこの詩について、巽は私にこう話した、という。
「大正十三年の七月号(『赤い鳥』)で
私の『お山の広つぱ』が推奨になったと
きに、先生(白秋)は『からたちの花』
を出しているが、同号に私も『からたち』
を出した。先生は僕の作品に影響されて
書いたのだろう。七月号に投稿した『か
らたち』はそのあとの十月号で佳作とな
っていた」
与田氏はこれに、こう続ける。
「白秋は新しいものに刺激を受けながら
書いた人であり、巽の自由律の『からた
ち』を、音数律で書いたともいえる。当
時白秋は、児童自由詩の百田宗治と『時
事新報』紙上で盛んに論争していたし、
私は『からたちの花』の誕生までには巽、
百田、白秋の三つどもえのエピソードが
あるとみている」
巽先生はその後、この問題について語ることはなかった。しかし、このことにふれて、巽先生の「からたち」−まだ当時の小学校の教科書にはこうした自由律の詩はなかった−と、白秋の「からたちの花」−からたちの花が咲いたよ、/しろいしろい花が咲いたよ−を読んでみる時、あらためてそれぞれの際立った特質がわかるとわたしは思う。(今回を含めて、戦後の岩手日報記事はみな佐藤誠一郎氏のお陰をいただきました。記して謝意を表します)
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