■ 〈古文書を旅する〉126 工藤利悦 かつて宮古湊に御手船あり
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■ 宮古丸・虎丸御船の儀御尋御答書
恐れながら御答申し上げたてまつり候こと
一、宮古丸・寅丸御船の起こりならびに追々御繕い等もこれあり候由ゆえ、右の次第を一々吟味書き上げ候ようにと御さたの儀、かしこみたてまつり候ところ、延享二年にも右のようなる儀、お尋ねも御座候や。その節も両艘の起こりいかようのわけて出来つかまつるの儀、一切分かり申さず旨申し上げたてまつり候趣に御座候。
このたびも右おさたの儀に御座候ゆえ、ことごとく吟味つかまつり候のところ、両御船の由来相知れ申さず候。もっとも前年は御船は数艘も御座候ところ、その後両船に相成り候ことともに、何年の頃と申す儀も知れ申さず候。
一、御繕い等の儀は、時々多少これあり候儀もこれあるべくや、恐れながら申し上げたてまつり候ほど儀も、古書留類に御座なく候。延享二年三月、宮古丸・寅丸両艘の御造立、大槌通吉利々々浦・怡顔方へ御船道具ともに御回し遣わされ候趣に御座候。寅丸御船の儀は、相州鴨居と申す所にて難風に遭い、御船損じ候ところ、直々御払いに相なり候やの趣、申し伝え御座候。安永五年春、御船御再興に御座候由にて、五百石積み御造船積方の儀、私どもへ仰せ付けられ、中考差し積もり書き上げつかまつるの儀も御座候。その後、寛政六年正月なおまた五百石積み壱艘御造立を仰せ付けらるべく由にて中考積もり書を差し上げ申し候、しかるところ恐れながらいかようの御次第にもこれありなしなさるや、おやめ遊ばされ候て、今に御再興御座なく候。右両度の中考を差し積もり帳差し上げ候下書き・控え帳は、寅丸御船頭八右衛門が所持つかまつり候ように存じまかりあり候ところ、この節御用にて盛岡表へまかり越し、居り合い申さず候間、しかと所持つかまつり候と申し渡しは申し上げがたく由と存じ候、もっとも寅丸御船頭が片付けの次第、年月ともども右ゆえに相分かり申さず候、八右衛門がまかり帰り候はば、なおまた吟味つかまつり申し上げたてまつるべく候。よって私一名をもって御答え申し上げたてまつり候已上。
享和四年正月 御船頭高橋吉右衛門
杤内瀬左衛門殿
神 匡殿
恐れながら差し上げたてまつり候口上書のこと
一、このたび宮古丸・寅丸御船の起こりならびに追々御繕い等もこれあり候はば、吟味つかまつり書き上げ候よう仰付けられ候に付き、吉右衛門の古書留類を吟味、一々申し上げたてまつり候通りに御座候えば、御船起こりの儀は相知り申さず候。さりながら八右衛門所持つかまつり候、古書留類も吟味つかまつり候ところ、延享二年宮古丸・寅丸両艘の御造り替え、大槌通吉利々々浦・怡顔へ仰付けられ出来つかまつりの儀は、吉右衛門申し上げたてまつり候通りに御座候。右両船御造り替え出来つかまつり候節の目録、怡顔より差し上げ候控えの写しならびに両艘御船道具を買い上げ、小払い目録、怡顔・善兵衛両人より差上げ候控えの写しともに八右衛門が所持しまかりあり候。安永五年春、寛政六年正月、両度共に五百石積みの御船積り方の儀、私共に仰付けられ、中考差し積り書上げ仕り候、安永五年に差上げ候控帳は所持仕らず候、寛政六年に差上げ候控帳は八右衛門が所持つかまつりまかりあり候。
一、寅丸御船は、延享二年十二月二十三日難風に逢い、相州鴨居村の腰越浜へ乗り揚げ候節の御訴外、始末等下書き、控え共に八右衛門所持つかまつりおり候。右御船損じ候ところこれあり、直々御払いに相成り申し候趣申し伝えの儀は、吉右衛門申し上げ候通りに御座候。
一、両艘の御船、宮古川に御囲いおつなぎ差し置かれ候趣に、先年恐れながら御上様より御届け指し置かせられ候て、ただ今に至り候ても、右御船は当所宮古川におつなぎ差し置かれこれあり体に御座候由、先祖よりの申し伝えに御座候(中略)。
八右衛門儀、先日御用にて盛岡表へまかり出でおり合い申さず候間、吉右衛門申し上げたてまつり候節、八右衛門所持つかまつり候書留類のうち、申し上げ残し置き候ようにも存じたてまつり候間、恐れながら右申し上げたてまつり候已上。
享和四年二月 寅丸御船頭 高橋八右衛門
宮古丸御船頭 高橋吉右衛門
杤内瀬左衛門殿
神 匡 殿
○盛岡丸 岩手丸 郡山丸 花巻丸 明神丸 宮古丸 虎丸
右の通、往古七丸の内、御手船これ有り、何れも御鑓(やり)を相立て候御穀船なりと言う。
宮古御代官所御手船宮古丸・虎丸は古来より船中に鑓を御立なし来り候処、浦賀御番所、右御鑓を御押し置きなされ候に付き、公辺へ御届けのところ、御鑓は相返し木札出る、右木札は御手船上り下りの節、浦賀にて御改め請け候に付き、宮古御代官に預け置く。
安政二(一八五五)年の記録・『大小御役人末々迄人数調積』によれば、宮古代官の下僚として御船頭二人、御水主(かこ)十八人が見える。本来、船頭・水主と言えば船乗りたちのこと。当時、彼らは陸上の任務に当たっていた(宮古水主文書)が、かつて宮古湊には盛岡丸 岩手丸 郡山丸 花巻丸 明神丸の五艘とともに御手船七丸と称せられ、宮古川(閉伊川か)に係留されていた宮古丸 虎丸があり、彼らはその乗組員・海の男たちの末裔であったという(宮古水主文書)。
ここに見る記録は、安政二年を遡るおよそ五十年前、享和四(一八〇四)年には既に乗る船を失っていたことを裏付ける記録でもある。
この時に藩が宮古丸・虎丸の由緒を調査している意図は定かでないが、延享二(一七四五)年に両船が建造され、虎丸は同年十二月に相州鴨居(神奈川県横須賀市)で遭難して廃船になっている。
ただし、宮古丸の廃船時期・原因は不明。その後、安永五(一七七六)年と寛政六(一七九四)年の両度にわたり建造計画が浮上しつつも沙汰止みとなり、当時に至っている経過を回答した船頭書状の写である。
一方、『内史略』前二十四に「宮古水主の由緒」に関する記述がある。
利直の時代の慶長年中に紀州侯徳川頼宣(家康十男)がまだ常陸水戸城主であった当時、船頭高橋吉右衛門と梶取の勘兵衛という者に水主(かこ)三人を添えてもらい受けたのが宮古水主の始まりとある。この頃に宮古丸・虎丸が初建造されたというのであろうか。
しかし、頼宣は慶長七(一六〇二)年に伏見城で生まれ、翌八年に水戸城主となるが、同十五年遠江国横須賀城主(静岡県浜北市)、次いで元和二(一六一六)年に駿府城主(静岡市)になった。紀伊和歌山城主となったのは同五年のことであった(『紀州水戸御系譜写』)。となれば、慶長八年から同十五年の間という『内史略』の説はにわかに信じがたい。なお、同書は享保十(一七二五)年の虎丸一件にも触れている。
■ 虎丸一件
吉右衛門に弟八郎左衛門があり、後に兄吉右衛門は宮古丸の御船頭、弟は寅丸の御船頭となった。
ある時、八郎左衛門は江戸へ米を移送の時、宮古代官所にあった長柄数十本の中から一本を取り出し、船中に押し立て出帆した。浦賀の御番所を通行の時にこれがとがめられた。
船頭は機転をきかせ、高声に「南部大膳大夫穀船虎丸にて、古来より道具鎗(やり)と称し立て来たるならわし」と申して通過する一方、藩邸にそのことを急報した。あに計らん、幕府からの問い合わせに藩邸も口裏を合わせた。
こうしてひょうたんから駒の譬のように天下公認の鑑札を得ることができたという話である。南部家は自他ともに旧家として知られていたから出来たこと。
鉾(ほこ)を新設した時のことなど、幕府側から証拠を示せと迫られたときに天文八年に三戸城が焼失して記録などを焼亡したということで「記録焼失」という言い訳はまさに打ち出の小槌。水戸黄門漫遊記の「三つ葉葵(あおい)の紋どころがある印籠(いんろう)」と同じ効果を発揮していたことがうかがわれる。
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